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将棋養真図その後

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均一台で『将棋養真図』(弘化四丁未九月吉日、芳賀利家写之)を求めてブログの記事をアップしたのは二〇〇六年一二月一九日。それ以来ページを開くこともなく、さりながら邪慳にもせず、将棋関連の書籍などといっしょに保存はしておいた。すると、先日次のようなメールを頂戴した。

《貴方のブログ「daily-sumus」で『将棋養真図式』という写本をおもちのことを拝見しました。元本は確かに大橋宗与『将棋養真図式』ですが、天保四年西宮弥兵衛版のほかに、古くは享保元年から数種の再版があります。大橋宗与は将棋家元のひとりで、家元本は再版を繰り返されるだけでなく、写本も広くされているのが普通ですが、『将棋養真図式』の写本はこれまで見たことがなく、百番ないのが残念ですが、珍しいものです。》

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発信者は磯田征一さん。『古今 詰将棋書総目録』(全日本詰将棋連盟、二〇〇八年)を編輯されたそうだ。その御著書の追加・修正を目的として「詰将棋一番星」というサイトを開いておられる。

詰将棋一番星
http://homepage3.nifty.com/1banboshi/index.htm

詰将棋が芸術の域に達しているという認識はむろん持っていたが、古い将棋関係の書物はたいてい高額のためまったく関心の外であった(安ければ買うのは言うまでもない)。しかし磯田氏のサイトを見るとあらためてその奥行きの広さ深さに驚かされる。

『将棋養真図』第一番、腕におぼえのある方は挑戦されたし! 難しそうだが、玉を追う手順が長いので見た目ほどではないようだ。(解答は下段)
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磯田氏が『古今 詰将棋書総目録』にこの写本を追加したいと懇願された。お貸しするというのも面倒なのでお譲りすることにした。喜んでいただけたようで何より。まあ、こんなものはそうそう見つかるはずもないが「百円の写本を侮るなかれ」という思いを新たにしたというしだい。

詰将棋の解答
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by sumus_co | 2011-09-17 20:40 | 古書日録

またまた額縁つくり

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十月十四日〜十六日に東京美術倶楽部で開催される東美アートフェアの岸本画廊ブースで個展をやらせてもらう予定のため新作に額縁をつくっている。例によって例の如し。大きめの絵に合わせてデザインを少し変えた。

ウンチク流仮額縁の製作手順
http://sumus.exblog.jp/14011617/
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by sumus_co | 2011-09-17 20:03 | 画家・林哲夫

指導者はこうして育つ

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柏倉康夫『指導者はこうして育つ フランス高等教育 グラン・ゼコール』(吉田書店、二〇一一年九月九日)読了。おぼろげにしか知らなかったフランスの教育制度の姿をくっきりと見せてくれる労作。具体的な例を挙げつつ小学校、中等学校からグラン・ゼコール(単数形ではグランド・エコール)まで簡潔に、しかも詳細に(例えば二〇一〇年のバカロレアの国語問題が掲載されている)綴られて面白くもあり、参考資料としても使いでがある。

グラン・ゼコールとは何か? 詳細は本書を読んでいただくに如くはないが、ごく簡単に言えば、ナポレオンが革命後に作った高等教育機関である。大学とどう違うのか? 例えばパリ大学は一二一一年にローマ教皇により正式に「大学」と認められたという事実が示しているように宗教教育機関であった。その神学部をソルボンヌ(元はソルボンの作った学寮)という。対してグラン・ゼコールはもっと実践的である。一七九四年に土木技術者を養成するエコール・ポリテクニックがまず作られ、つづいて師範学校であるエコール・ノルマル・シュペリュールができた。

《ノルマリアン[エコール・ノルマルの現役学生と、かつて学んだ人]は、民主主義によってすべて平等となった二五〇〇万人の共和国にあって、人びとの理解する力を、世代から世代へと受け継ぐことを目的とする計画の実行者である。この地上ではじめて、真実、理性、哲学が教えられるのである。》(エコール・ノルマル設立の主導者の一人プール・ジョゼフ・ラカナルの書簡より)

ようするに教育の主導権をカトリック教会から奪って革命精神に沿った市民を育てるというのがその基本方針であった。

過去のグラン・ゼコール出身者の例をあげてその業績などを紹介している章も要領よくまとまっている。ガロア、クーザン、ミシュレ、パストゥール、クレットマン、ロマン・ロラン、ニザン、サルトル、アルチュセール、フーコー、阿部良雄。

なかではルイ・クレットマンに関する記述が興味深い。彼はエコール・ポリテクニックを出て一八七六年(明治九)に横浜に着いた。ときに二十三歳。明治政府は兵部大輔・大村益次郎らの主張によりフランス式の兵学を採用することになっていた(海軍はイギリス式)。そのためにフランスから軍事顧問団がやってきたのである。

クレットマンらはまず三宅坂の旧・井伊掃部頭屋敷(現・憲政記念館・国会前庭等)に寄宿、のちに番町に新宅を与えられた。そこから市ヶ谷台に明治七年十二月に開校した陸軍士官学校へ通ったそうだが、二年間の日本滞在中、クレットマンは丹念に日記をつけ、数多くの写真を撮影した。それら膨大な資料は、孫のピエール・クレットマンが整理して二冊の私家版として一九九六年に出版するまで全く忘れ去られていたという。

《孫のピエール・クレットマンは亡くなる前、二〇〇二年九月には、個人的な手紙と日記を除く史料を、コレージュ・ド・フランスの日本学高等研究所に委託した。これらのうちのクレットマンが撮影または蒐集した五〇〇余りの写真の内の二七二点は、コレージュ・ド・フランス日本学高等研究所の松崎碩子他の監修で、写真アルバム『フランス兵士が見た近代日本のあけぼの』として刊行された。》

ということである。文中「コレージュ・ド・フランス」とは何ぞや? これもやはり本書を参照していただくに如くはない。

なお本書は吉田書店(http://www.yoshidapublishing.com/)の処女出版作でもある。店主の御挨拶にいわく

《出版という仕事を通して、1人でも多くの人が幸せな暮らしを送れるような社会をつくる一翼を担うことができれば、これ以上の喜びはありません。学ぶことの楽しさ、大切さを、著者、読者の皆様とともに味わいたいと思います。》
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by sumus_co | 2011-09-16 21:58 | おすすめ本棚

パリ古本ツアー

読者の「権」さんよりパリで古本屋を巡りましたといううらやましいメールと写真を頂戴したので、その一部を紹介したい。以下は権さんのメールより。写真番号は省略した。

  *

9月頭にパリで過ごしてまいりました。Shakespeare & Co. です。メトロの St-Michel で降りて、なんとなくセーヌ河畔をノートルダムが見える方へ歩いていったら、開店少し前に無事到着しました。
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City Lights の姉妹店なんですね。
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2階へ続く階段ですが、ご覧のようにここにも書棚があつらえられていました。2階は児童書があったほか、閲覧可の非売品図書が並んでいました。
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「見知らぬ者にもつれなくするな。変装した天使かもしれないから」という例のフレーズ。George Whitman の肖像画も見えます。総じて言えば、実際に買いたい本が見つかるかどうかは別として、見て回るのが楽しい店でした。
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林さんからご教示いただいた Librairie Henri Vignes です。なるほど、ここはいいですね。店先の均一棚もこの通り盛況でした。店主も好人物。すてきなカタログをいただきました。ここでは買い物がけっこうありました。
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次は今回わたしが滞在していたモンパルナスにある店です。Librairie L'Âme et le rêve 、この店はたまたま La Rotonde の周辺をぶらついていたときに見つけました。店主に聞いたところ、開店してまだ7年とのことでしたが、かなり充実した品揃えの店でした。なんでも André Breton の旧蔵書もまとまった量を仕入れたのだとか。
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Tschann Libraire です。Céline や Beckett が常連だったという店だけあって、質量ともに文芸書が充実していました。
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日曜日だったので、セーヌ河畔のブキニストをひやかすことにした際のものです。これはいいもんですねえ。なごみます。
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パリで暮らす友人に勧められて訪れたサン・ポールの店を訪ねる際に通りすがった小さな古本屋。二枚目右奥に写っている白髪頭の老人が店主。気持ちよさそうに眠っていたので、邪魔せずそのまま通過しました。
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以下二枚が、このときのお目当てだった Librairie Michèle Ignazi です。さすがに文芸書が充実していました。Tschannといい勝負といったところでしょうか。ここにも地元の詩人や作家がよく立ち寄るのだそうです。ちなみに街としてもサン・ポールのこのあたりは街路の雰囲気がよく、印象に残りました。
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Galerie Vivienne です。ここにはかの Librairie Jousseaume があるので。
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――とまあ、ぜんぶではありませんがだいたいこんな具合で楽しみました。写真ではあまりわからないかもしれませんが、日本ほどではないにしろ、パリもけっこう暑かったです。また行ってみたいなあ……

  *

権さんのメールに登場した本屋のおおざっぱな位置関係を略図にしてみた。ムラムラと古本歩きがしたくなってきた。フッハー(鼻息)!
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by sumus_co | 2011-09-15 20:48 | パリ古本日記

刺繍ポジャギとチョガッポ展

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トリペルへ古本を搬入した帰り道、ちょっと遠回りして高麗美術館の「刺繍ポジャギとチョガッポ展」を見た。これは素晴しい展示だった。韓国刺繍博物館コレクションが五十点ほど、他に高麗美術館の収蔵品と現代作家の作品も並んでいた。刺繍や色彩豊かなキルティングもよかったが、個人的には時代がついた(といっても十九世紀なのだが)苧麻チョガッポが逸品揃いで、うっとりとなってしまった。ほしいなあ〜。美術館の受付で販売品もあったけれど、そう古くもなくて何万円もするのだ。古いものはやはり珍しいのだろう。いいものを見せてもらった。

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高麗美術館
http://www.koryomuseum.or.jp/

韓国刺繍博物館(糸田刺繍博物館)
http://www.seoulnavi.com/miru/18/
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by sumus_co | 2011-09-15 17:39 | 雲遅空想美術館

東京芸者の一日

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『精選名著複刻全集近代文学館 ジョルジュ・ビゴー画 東京芸者の一日』(日本近代文学館、一九七三年五月二〇日三刷)、原題は「LA JOUNEE D'UNE GUESHA A TOKIO DESSINS DE GEORGES BIGOT」(一八九一)。

本日、京都はめちゃくちゃ暑かった。三十五度以上の猛暑日。全国でも三番目に暑かったとか。氷がほしい〜と思っても、先日の涼しさで家庭用かき氷機械を早々としまってしまったので、あとの祭り。

ビゴーがうまそうな氷店の情景を描いている。硝子の器がシャレている。
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明治の氷屋については『明治事物起原』(架蔵はちくま学芸文庫版)が詳しい。幕末には「水屋」というものがあって《白玉を、冷水に浮かしたるもの》を主に屋台で売っていた。横浜開港間もなく米人がボストンより氷を輸入して大きな利益を占めたことがあり、それを見て中川嘉兵衛が天然氷を各地より切り出して横浜馬車道で初めて販売したのが文久二年。『横浜沿革誌』は明治二年六月に開店した町田房造の氷店が最初だとしているが、東京では明治四年に始まり、五年に一般化した。

『明治事物起原』には明治二十四年の氷店の価格表も出ている。ビゴー画の旗に見るごとく「氷水」は一銭だった。「Buvez cette ice cream elle est fondue.」(アイスクリーム啜りなさい、溶けちゃたわよ)というキャプションのようにアイスクリームも売っており、それはもっとも高価な五銭。氷あられ二銭、れもん水二銭、ジンジンビーヤ二銭、上等玉ラムネ二銭、氷コーヒー二銭五厘。

次は客を送り出す場面。「Zeshi irashaï yô……」(ぜし、いらしゃいよ〜)、江戸っ子だね。
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本が出てこないかと思っていると、東京芸者は按摩をとりながらのリラックス・タイムに何か雑誌のようなものを読んでいる。あるいは小説か講談か。挿絵が入っているようにも見える。「指先に目のある盲人らは幸いなり」
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他には踊りの稽古で師匠がホンを見ながら謡っている。
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清水勲『続ビゴー日本素描集』(岩波文庫、一九九二年)には《政治色が少なく、そのためかえって人気があった作品は、ビゴーが一八九〇年から刊行しだした「漫画集」である》《『正月元旦』を皮切りとするシリーズ画集には『国会議員之本』(28点、一八九〇年八月刊)、『警官のたぼう』(25点、一八九一年刊)、『東京芸者の一日』(22点、一八九一年刊)がある。これらの画集は判の小さな和綴で、まずまずの成功を収めたようである。というのもビゴーの毎回の広告で、通常の発行部数のほかに通し番号をつけた特装版百部を印刷しているとうたっているからである》と書かれている。ただしこの複刻版の判はけっして小さくはない(B5相当)。

清水勲『ビゴー日本素描集』(岩波文庫、一九八九年九刷)に長原孝太郎がビゴー宅を訪問した折りの印象が引用されている。

《僕が訪ねた時、彼の部屋には赤い布で腰の辺を纏った裸体の油画などがあったが、その頃の我々には「なんという下品な画を描く男だろう」と思われた。彼が日本の風俗を描いた漫画は外国の人々に売って生活の助けにするために描かれたものだ。無論日本人仲間などには問題にはならなかった。しかし、今見ると、日本人の描いたものよりも面白いものが多いようだ。》

面白いものが多いどころではなく、日本人では描けないリアリティ、目の付けどころがなんとも新鮮だ。ビゴーは昭和二年にパリ郊外のビエーブルの自宅で没した。松尾邦之助が昭和九年にビゴーの旧宅を訪問した記事が『明治文化』第八卷第六号に載っている。

《巴里の近郊とは思へぬ様な寂しいーーが閑静なーー森かげの岡の上にあつたこのアトリエ兼別荘は、まるで日本の家の様で、内部の西洋式な装飾は別として、庭から軒の作りからまるで日本風です。》

《ロンセイ夫人の紹介でビゴーの最後を一緒に暮した寡婦に逢ひました。寡婦の話によると、ビゴーはこの近所の村人から「日本人」と呼ばれ、外出にはいつも着物であり、下駄をはいて村の子供を背におんぶしたりして、まるで日本にゐたときと同じやうにやつてゐたと云ふんです。》

ビゴーは一八八一年、二十一歳で横浜に上陸。諷刺漫画で名を高め、三十四歳で佐野マスと結婚、翌年ガストンが生まれる。三十九歳、マスと離婚し息子を連れてフランスに帰国。仏人女性と結婚して二女をもうけた。二十世紀初頭の巴里には本当の「日本人」も沢山住んでいたわけだが、日本の着物を着て子供をおぶっている日本男児はいなかったろう(絶対いないとは思わないが、まずいないだろう)。人生の不思議を思う。
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by sumus_co | 2011-09-14 21:24 | 古書日録

本と怠け者

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荻原魚雷『本と怠け者』(ちくま文庫、二〇一一年九月一〇日、カバーデザイン=石丸澄子)が届いた。石丸さんのカバーが素敵だ。同じちくま文庫では岡崎氏の『古本生活読本』や『古本極楽ガイド』カバーとかぶってくるのだが、そこは夜空のブルーで魚雷本の世界らしさを演出していて見事。岡崎氏の解説も魚雷君の風貌を余す所なく伝えている。

『ちくま』誌上で三年余り連載されたエッセイに「文壇高円寺」に加筆した三篇、そして「震災後日記」と「怠け者の読書癖 序にかえて」を収録して文庫オリジナルという形で上梓された。ということは小生が『ちくま』の表紙を担当していた二年間も含まれるわけで、むろんそれ以前の『ちくま』も読んでいたから連載分はだいたい読んだ記憶が残っている。

《人並みのことができるようになりたいとおもったこともあったが、それを目指すと、それだけでやりたいことが何もできなくなる。やりたいことをやるためにからだがボロボロになるのはいいが、やりたくないことのためにボロボロになるのは真っ平だ。
 そうふっきれるまでには、ずいぶん時間がかかった。》(序にかえて)

小生も大学に入ったときに同じようなことを考えた。やりたいことをやろうと決めてやってきたつもりだが、そんなに悩んだりはしなかった。ようするに単細胞だった、あるいは根拠のない自信家(うぬぼれや)だったというだけのことだ。対して魚雷君の《そうふっきれるまでには、ずいぶん時間がかかった》、この一文には何とも言えない味わいがある。

本書は単なるお気楽なエッセイ集ではない。哲学の書である。哲学とはなにか? あるべき自分とある自分のギャップを埋めることだ。フィロソフィーというが、これは智を愛し求めるというギリシャ語である。求めるのだから欠けている。智を求める者には智がないにちがいない。三十歳前後、魚雷君は仕事をほされて金がないのに暇ばかりあって無気力にしずみかちだった。

《当時、自分のやる気のなさを肯定してくれる文学はないかと古本屋めぐりをしていた。やる気が出る本ではなく、別にやる気を出さなくてもいいという本を求めているあたり、考え方がややこしくこじれてしまっている。》(傾斜地の怠け者)

そうだろう、魚雷君はちっとも怠け者なんかじゃない。少なくとも「本との怠け者」じゃない。怠け者に古本屋めぐりはできないし、怠け者を肯定する本を探そうというのだから(ないものを求めるのだから)、ほんとうは、いやほんとうウソもなくもともと勤勉なのである。というか、この書き振り、理窟の立て方がまさに哲学ではないか。

「批評のこと」という長文のエッセイは小林秀雄へのアプローチ。これはまさに批評そのものを問う批評と評していいだろう。小林秀雄以外にも批評家とされる人々、青野季吉、新居格、ラスキン、パピーニ、ミケシュ、福田恆存、中村光夫ら、を多く取り上げているから、批評への関心(それはとりもなおさず愛智と呼べると思うのだが)こそが魚雷エッセイの要諦である。

《ある種の論争も、正しさよりも、相手のいうことに聞く耳を持たず、打たれ強さ(何をいわれても平気)という人のほうが有利になってしまうことが、しばしばある。
 批評が勝ち負けの世界であれば、自分の考えを微塵も変える気がなく、相手を否定することに躊躇ない人のほうが強い。
 逆に、弱者が、弱者であることを盾に、相手を否定しまくるという場合もある。
 二十代のころ、ずっとわたしの頭を悩ませていた問題である。》(批評のこと)

悩む、のである。ふつうは悩まない。ソクラテスもプラトンもギョライもみんな悩んで大きくなった! 要するに本書は、ひじょうに身の丈に合ったやさしい言葉で書かれているが、体験に根ざした重い思惟がひとつひとつの文章に錘のようにぶらさがっている。

しかし、これは以前にも書いたことがあるし、本人にも何度か伝えたのだが、小説を書きなさいよ、《二十代のころ、ずっとわたしの頭を悩ませていた問題》と一行ですませず、その「問題」で一篇の小説を書いて欲しい、というか魚雷「文学」を読んでみたい。《ずいぶん時間がかかっ》てもいいので、スコップをスプーンに持ち替えて是非ともよろしく。

あ、いや、だからといって本書の哲人魚雷としての価値を認めないわけでは決してなく、とても貴重な独自のスタイルだと思うし、この『本と怠け者』もぜったいお勧めの一冊であることに変りはない。
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by sumus_co | 2011-09-13 21:47 | おすすめ本棚

草枕

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縮刷・夏目漱石から『草枕』(春陽堂、大正九年四十三版)を取り出して読んでみた。たぶん大学生の夏休み以来とかそのくらい間が空いての再読である。図版に掲げたのは『鶉籠』(春陽堂、大正十三年二十五版、「坊ちやん」「二百十日」「草枕」の三作収載)の津田青楓による扉および章扉(木版刷)。
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コメントいただいたようにさらっと若沖の掛け軸が登場するのは初めの方、宿に着いた晩の落ち着かない気分を叙したくだりである。

《横を向く。床にかかつてゐるの若冲の鶴の図が目につく。是は商売柄丈に部屋に這入つた時、既に逸品と認めた。若冲の図は大抵精緻な彩色ものが多いが、此鶴は世間に気兼なしの一筆がきで、一本足ですらりと立つた上に、卵形の胴がふわつと乗つかつてゐる様子は甚だ吾意を得て、飄逸の趣は、長い嘴のさき迄籠つてゐる。》

商売柄というのは主人公が画工(えかき)だから。伊藤若冲「立鶴図」は相国寺などに所蔵されており、まさにこの描写のような図柄である。《若冲の図は大抵精緻な彩色ものが多い》と書かれているが、漱石がいったいどこから若冲の情報を得ていたのか興味が湧く。今、辻惟雄とヒックマン編の若冲文献表を見てみると、執筆当時(明治三十六年)に入手できそうなのはこれだけである。

明治十七年  五百全 伊藤若冲 石亭画談初編巻之上
明治二十一年 若冲の画幅献納 絵画叢誌二十一
明治二十四年 国華一九号 鯉魚図解説
明治三十三年 国華一二九号 鶏図解説

むろん生家や知人宅にあったとか、書画屋などで実見したということも考えられようが、ともかく近代の若冲評価としては初期に属するかもしれない。

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『草枕』は文学論も含む芸術論の書で、ヒロインの那美(上図、ミレーの「オフェーリア」からイメージしたらしい)の境遇をめぐる画工とのやりとりの合間合間に持論が展開されている。ダ・ヴィンチから頼山陽の硯までいろいろな美術家や美術品の名前が飛び交うのも面白くはあるが、ちりばめすぎという気がしなくもない。英語の小説をすらすら読み、漢詩を空で作ったりする「えかき」が当時も今もいるものだろうか(勿論いないとは言えないけれど)。ちっとも絵は描かないし。

小説の読み方。

《只机の上へ、かう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです』
『夫で面白いんですか』
『夫が面白いんです』
『何故?』
『何故つて、小説なんか、さうして読む方が面白いです』》

小説の書き方。

《トリストラム・シヤンデーと云ふ書物のなかに、此書物ほど神の御覚召に叶うた書き方はないとある。最初の一句はともかくも自力で綴る。あとは只管に神を念じて、筆の動くに任せる。何をかくか自分に無論見当が付かぬ。かく者は自分であるが、かく事は神の事である。従つて責任は著者にはないさうだ。》

もちろんこれはローレンス・スターンの皮肉だが、『トリストラム・シヤンデー』は漱石の原点とも言える作品なので、あんがい真面目に漱石はオートマチスムみたいなことを考えていたかもしれない。そして芸術の本質。

《その苦痛を冒す為には、苦痛に打ち勝つ丈の愉快がどこかに潜んで居らねばならん。画と云ふも、詩と云ふも、あるは芝居と云ふも、此悲酸のうちに籠る快感の別号に過ぎん。》

この後に少し弁解がましい文言が続くのが惜しい。《快感の別号に過ぎん》とドライに言い切っておいて欲しかった。

漱石は明治十年に伊豆修善寺で吐血して以降、熱心に書画の制作にうちこむようになる。津田青楓によれば習うということが嫌いでまったくの独学独歩だったらしい(津田には見せていたようだが)。図版で見る限り絵よりも、良寛を手本にしたという書の方が見どころがある。見どころがあるなんていうと偉そうだけど、漱石は四十九歳で歿したのだ、とっくにその年齢を越えている小生としては、もっと続けていれば本物になったかもしれないと思うのである。
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by sumus_co | 2011-09-12 22:09 | 古書日録

入道雲

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内田百間の「入道雲」が収録されている『北溟』(小山書店、一九三七年一二月二〇日、装幀=谷中安規)。関東大震災の当時、雑司ヶ谷の盲学校の前にあった百間宅の被害はつぎのようなものだった。

《家の者はみんな盲学校の校庭に避難してゐた。家の中の壁が落ちて、二階の上り口は潰れさうだけれど、幸ひ何人も怪我をしなかつた。屋根の瓦がすつかり落ちてしまつた為に、そのお蔭で古い家が潰れずにすんだのであらう。》

「盲学校」は現在の「筑波大学附属視覚特別支援学校」(東京都文京区目白台3)。明治十三年、築地に楽善会訓盲院として開校。文部省の直轄学校「訓盲唖院」となり明治二十年には東京盲唖学校と改称。明治二十三年に小石川指谷町の薬草試植園に移転、さらに明治四十三年に現在地に移転した。井伏鱒二が避難していた戸塚グラウンドこと「安部球場」(現・早稲田大学総合学術情報センター、都電早稲田駅南)から一キロメートルと離れていない。

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百間はちょうど旅に出ようとして人力車の乗っているときに地震に遭遇し、あわてて引き返して来たのだった。

《私はトランクの中に身の廻りの必要な物一式を入れてゐるので、家の者みんなで使つても暫らくは不自由しないであらう。おまけに私のポケツトにはお金が沢山這入つてゐる。家に残した分もまだ使ふひまがなかつたので、その儘ある。どこの家でも昨日の晦日に払ひをした後だから、お金は余りないに違ひない。かう云ふ変事の起こつた際に、偶然何百円と云ふ金を、私ばかりがちやんと手許に持つてゐると云ふ幸運にめぐり会つた。》

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《それから何日かの間が私の一生の全盛時代であつた様な気がする。お金が有り余つて買ふ物がなかつた。》

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《東南の空に湧き上がつた大きな雲の峰が色色の形に変はりながら、段段伸びて行く様であつた。雲の峰かと思つたが、或は煙の塊りかも知れない。塊りの中腹の辺りが渦を巻いてゐるのが見える。汚れた様な黒い色の中に、時時赤味を射す様に思はれた。渦の中に大変な旋風が起こつてゐるらしく思はれた。午後三時を過ぎた頃から、雲だか煙だか解らないその大きな塊りの中から、どろどろと云ふ遠雷の様な音が起こつた。段段に大きくなつて、音が一続きになり、唸る様な響が轟轟と伝はつて来だした。》

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《赤黒い色の中に、ぴかりぴかりと鋭く光る小さな物が飛び交つた。何の物音とも解らずに、ただ独りでに頭の下がる様な恐ろしさであつた。本所深川一帯の火焔が大川縁に吹きつけて、縺れて撚れ上がつてゐるのであるとは知らなかつた。被服厰跡を包んだ焔だの声であつたかと後になつて、その唸る様な響をもう一度耳の底に聞かうとした。私の「長春香」はここから始まるのである。》
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「長春香」は『鶴』(三笠書房、一九三五年二月二二日)に収められている。長野初という百間がドイツ語を教えた女性を追悼した作品である。初は日本女子大を出て帝大初の女子聴講生の一人として社会学科に通っていた。その授業を理解するためにドイツ語を習いたいと野上臼川の紹介で通ってくるようになった。勉強家で素質もよく百間も意外に思うくらい進歩が速かった。彼女の家は本所の石原町にあった。一度よばれて鳥鍋を御馳走になった。初は帝大の聴講を終え、二三年後に婿を迎えて赤ちゃんがぢきに生まれるという話を聞いた。

《間もなく九月一日の大地震と、それに続いた大火が起こり、長野の消息は解らなくなつた。》

余燼の消えない幾日目かに百間は厩橋を渡って本所石原町の焼跡で長野の家を探した。焼死した人人の亡骸がころころと転がっていた。

《焼野原の中に、見当をつけて、長野の家の焼跡に起つた。暑い日が真上から、かんかん照りつけて、汗が両頬をたらたらと流れた。目がくらむ様な気がして、辺りがぼやけて来た時、焼けた灰の上に、瑕もつかずに突つ起つてゐる一輪挿を見つけて、家に持ち帰つて以来、もう十一年過ぎたのである。》

さらに何日かして百間は長野初と書いた幟を背中にかついで石原町の焼跡にふたたび出かけた。そのときは道も大分片付いていた。余震も遠ざかり公孫樹の葉が落ち尽くした頃、宮城道雄や、初を知る学生たちと追悼会を催した。位牌まで突っ込んでしまうとんでもない闇鍋のこっけいが悲しみを深くする。以来、百間は毎年九月一日がくると石原町の長野の家のあった辺りをひと回りして帰ってくることになる。

《長野は小柄の、色の白い、目の澄んだ美人であつた》

やっぱりなあ。
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by sumus_co | 2011-09-11 21:37 | 古書日録

荻窪風土記

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井伏鱒二の描写がマユツバなどと書いてしまったので気になって『荻窪風土記』(新潮社、一九八二年)を手に入れて確認した。問題のエッセイは「関東大震災直後」。書き出し二行目。

《あの日は、夜明け頃に物すごい雨が降りだした。いきなりの土砂降りとなつたものらしい。私はその音で目をさました。雨脚の太さはステッキほどの太さがあるかといふやうで、話に聞く南洋で降るスコールといふのはこんな太い雨ではないかと思つた。》

内田百間の「入道雲」もおなじような始まりである。冒頭から。

《その朝は雲脚の速い空が段段に暗くなつて、叩きつける様な雨が降りだした。降つてゐる間に空が明かるくなつたり、又かぶさつたりした後、まだ降つてゐる儘にその雲が何処かへ行つてしまつたと思はれる様な霽れ方で、急に青空が輝やいて、すがすがしい風が吹き渡つた。》

百間の名文が際立つ。井伏はこれだけの描写に「太」が三度も入っている。イブセは寝業師だ。それはそれとして、井伏の住む下宿(下戸塚で一番古参の古ぼけた)の被害はというと、斜めにのめりかけ、階段が壊れ(といっても上ることはできた)、塗り直したばかりの壁が崩れ落ちていた。同級生だった小島徳弥の住む平屋は柱時計が落ち瓶がくだけた程度だったという。

当日は下宿の新築中の別棟で過し、二日目、三日目は戸塚グラウンドのスタンドで夜を明かした。四日目は下宿にもどったようである。下町の火災が収まった五日目に小石川の兄を訪ねたが、兄のところも大した被害はなかった。鉄道省勤務だった兄の出勤について竹橋まで歩き、そこで兄と別れた。

《竹橋のところにはお濠の水がすつかり乾上がつて、人のむくろがそこかしこに散らばつてゐた。有名な店屋のしるしがついてゐる買物包みをぶら下げて、盛装して倒れてゐる女体が石垣のすぐ真下に横たはつてゐた。目に見える限り、女はすべて仰向けになつてゐる。男はすべて俯伏せになつてゐる。》

「仰向け/俯伏せ」表現はまさに井伏ならでは。そんなはずないのだが、これに似たレトリックを井伏はよく使う。そして下戸塚に戻ると七日に立川から汽車が出るという噂を耳にした。

《「七日と言へば、今日のことではないか。今月今日、東京を退散だ」
 もうお昼すぎになってゐたが、急に思ひ立つたので郷里へ帰ることにした。財布は帯に捩込んで、カンカン帽に日和下駄をはき、下宿のお上や止宿人に私は左様ならをした。》

お昼過ぎに出発した。ところがどこで道草をくったのか、中野駅のガードのところへ着くともう日が暮れかけていた。

《私はガードを渡るのを止して駅に引返し、南口に出て線路沿ひの薯畑の畦道に入つた。もう日が暮れかけてゐた。》

と書かれているのだが、これはどうやら錯誤らしい(《当時の駅は昭和4年までガードの先にあった筈で、引き返しても駅はない》という説がある)。中野駅の近くの農家で一夜の宿を借り、高円寺の光成信男(早稲田の先輩)の家へ行きその夜の夜警に加わった。翌朝すぐに出発し阿佐ヶ谷駅から荻窪駅とたどりつき、線路道を立川まで歩いた。

《てくてく歩け、てくてく歩け、私は実際てくてく歩いて行つた。立川には避難民が乗るのを待つてゐる汽車があつた。駅員が乗客に向かつて、震災で避難する人は乗車券が不要だと言つた。》

この後、塩尻で名古屋行きに乗り換え、名古屋から普通の列車で福山駅に着いた。帰郷して三日目(ということは九月十三、十四日ごろ?)、震災五日目に別れた兄が打った電報が郷里の家に届いた。唐草模様が印刷されたカンカン帽子の底に貼ってある紙片に鉛筆でこう書いてあった。
「マスジブジ」
電報が本人よりもずっと後に届いたというサゲ、これはあり得るだろう。ただし電報用紙のくだりは何かの勘違いではないかと思うのだが。

『大正大震災大火災』より避難民が殺到する品川駅の様子。および場所は不明だが満員列車。十月一日発行なので当然それ以前になろうが、東海道線はまだ復旧していなかったと思われる。例えば墜落した酒匂川橋梁は十月十五日仮復旧。
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by sumus_co | 2011-09-10 22:10 | 古書日録