岸田劉生描く「芝川照吉氏之像」(木炭、チョーク、一九一九年)。芝川照吉は文楽の五世竹本弥太夫の長男である。先日、中之島図書館で閲覧した『五世竹本弥太夫 芸の六十年』は実弟(次男)の木谷蓬吟の編著になる。照吉は二十四歳で芝川家の三女と結婚して養子に入った。芝川家は江戸時代以来の呉服商で明治になって急成長した毛織物問屋であった。大正期には毛織物輸入販売では最大手だったようだ。照吉は明治四十三年から東京支店へ移り、岸田劉生の最も有力な後援者の一人となった。
そもそもは大阪で目の療養をしていた石井柏亭と知り合ったことから、工芸や洋画を中心としたコレクターとなった。コレクターと言っても、蒐集するのが目的というよりも、若い画家を援助するのを好んだらしく、その結果作品が集まってくるというふうであったらしい。青木繁が明治四十四年に流浪のすえに福岡で死んだ後、坂本繁二郎や正宗得三郎ら友人が遺作展と画集の刊行を企てたとき、芝川は金銭面で大きな貢献をした。それ以前に芝川は青木の作品を購入しており、また青木とも面識があったようである。芝川照吉コレクション展の図録によれば、青木を十八点所有していた。
先日、話題にした奥田万里女史の『祖父駒蔵と「メイゾン鴻之巣」』(かまくら春秋社、二〇〇八年)が届いたのでさっそく読んでみた。やはりこちらでは駒蔵が絵画を好んだことが詳しく書かれており、なかで特に驚いたのは、関根正二の
「子供」(ブリヂストン美術館蔵)を所蔵していたことがあるという事実。また青木繁の「海の幸」がメイゾン鴻之巣の壁に掛かっていたという証言さえあるという。そして
《明治四十五年三月青木繁没後一周年の遺作展が上野で開催されたとき、彼の追悼記念会の会場になったのが「メイゾン鴻乃巣」であった。》
とも書かれている。ということは、もちろんこの会場に芝川照吉も足を運んでいたと考えるべきである(当時は芝高輪に住んでいた)。照吉四十一歳、駒蔵三十歳。ちなみに関根正二はまだ十三歳、しかし正二が死ぬのは一九一九年二十歳なのである。芝川コレクションに関根の絵はないようだ。もひとつ言えば佐野繁次郎は関根正二の一つ下、十二歳。照吉が大阪に戻ったときなど、今橋の高級料理屋「つる家」でゴチそうになったりしていた。佐野と照吉は親戚だというが、どういう関係なのか分からない。可愛がってもらったことだけはたしかである。
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『エルマガジン』が十二月発売の来年二月号で休刊することに決まったそうだ。28万部で採算が取れないというのは、いったいどういう作り方してるんだろう。月刊『プレイボーイ』といい、取材された雑誌が次々休刊というのは、あまりいい気持ではない。『ほんまに』も危ないかも(がんばってや)。