坪内祐三『東京』(太田出版、二〇〇八年)より「成城」の見開き写真「成城六丁目」(北島敬三)。『東京』は不思議な読物だ。青春、と、簡単に言い切っていいのかもしれない。とても面白いことは面白いが、ちょっとディープすぎてついて行けないところも多々ある。やっぱり東京はセレブの街なんだなあと改めて感じたことだ。坪内は、中学時代に英語の成績が悪く、一時期、成城の「おばさま」宅へ英語を習いに通っていたという。
《「おばさま」、すなわち柳田富美子おばさまの夫の名前は柳田為正、民俗学者の柳田國男の長男である。
そして私は、それから毎週、戦前に柳田國男が砧の村に建てた洋館風の家に通うことになった。
そもそも成城が成城となっていったそのシンボルともいえたのがこの柳田國男の家だった。
柳田國男が市谷から砧村のこの家に移ってきたのは昭和二年八月のことだ。
当時、柳田の長男為正は市谷の近くの成城中学に通っていた。成城中学には同中学の校長沢柳政太郎の懐刀とも言える熱血教師小原国芳がいた。小原は教育者としての理想を実現するため砧の地に成城第二中学校を建設する。
それが成城学園であり、成城という地名はその学園名からとられたのだ。
小原の考えに共鳴した柳田國男は、息子の転校に合わせてその地に移り住む。》
坪内の母方の曽祖父は井上通泰(歌人・眼科医)で通泰は柳田國男の兄である。これに関しては本が本を呼んだ。たまたま本日
「古本と男子」のDMが届いたので、一部だけでも出品物を用意しておこうと思って整理を始めたら、そのなかに『新潮日本文学アルバム柳田国男』(一九八七年四刷)がまぎれていた。なにげなくながめていると、柳田の新居として不思議な建物の写真が掲載されていた。
家の前に立つ柳田と三人の子供たち。左端が為正(後の坪内の「おじさま」)。このキャプションには《昭和2年9月転居》とある。この時期、柳田は朝日新聞編集局顧問として執筆する他、雑誌『民族』を発行(一九二五〜二八年)し、民俗学のイメージを固めつつあったようである。
『東京』巻末の「エピローグ対談」(坪内×北島、二〇〇八年三月)が北島の突っ込みで面白くなっている。例えばこんな感じ。
《北島 自分の昔話ばっかり書いてなにやってんだって思ってたんだけど、打ち合わせしながら閃いたんだよ。二つあった。もう忘れちゃったけど(笑)。そう言えば、「ふらて」のひろみさんが「あれは売れるんじゃないの」と言ってた。
坪内 それはないと思うよ。
北島 俺はね、坪内の昔話がどうして売れんのか全然分かんない。そこにある種の批評性があるというのが全然分かんない。
坪内 敬ちゃんには分かりやすい批評じゃないと、ジャック・デリダだとかね(笑)。デリダの批評は要約できるでしょ。でも、俺のは要約不可能だから。》
「ふらて」には小生のボトルがあるそうで、いつもコメをくれる岩田氏が教えてくれた。以前、
「ふらて」に行ったときには、すでにけっこう酔ってたからすっかり忘れてた。ずっとご無沙汰しているなあ。今度上京したら寄りたいものだ。