これが先日触れた『高祖保書簡集』である。上は栞で石神井書林内堀弘さんが高祖保詩集『禽(とり)のゐる五分間写生』について書いておられる。
《この詩集を作ったのが井上多喜三郎だった。手紙を読んでいると、これが出来上がったときの高祖保の喜びようといったらない。僅かに百冊が作られた小さな詩集だが、まるで待ちに待った贈物が届いたように詩人はこれを手にする。書物は器なのだ。書物そのものも作品なのだと私は改めて思った。一冊の詩集をそんなふうに作ってみせる。プライヴェートプレス(個人出版)としての井上の本領も見事に現れている。
遺された一束の手紙から、書物の生まれた瞬間がこんなふうに甦ってくるのだから、まるで奇蹟のようだ。》
その『禽のゐる五分間写生』ができあがったときの高祖の手紙は次のようなものである。
《詩集出来の御ハガキ、うれしくいただきました。たうとう厚顔なおねだりをして、さんざ散財をおさせして、何とも申し訳ありません。[略]御ハガキをひるいたゞいて、夕がたまで、詩集やあい、とポストまでお百度です。ポストは空腹のまゝ昏れてしまひ、うそさむげな雨がやつてきました。詩集は濡れはせんだろか、と心配しながら、明日の第一便を心まちしつつ。こんやはポケツト詩集の夢をみます……。》(昭和十六年七月十五日)
《ただいま、いたゞきました。たしかにいたゞきました。羽搏く天使の訪れのやうに、六十羽の賑やかな「禽」が、タキサン、タキサンと羽おとをあげながら、飛びこんできました。上袋をあける間のもどかしさ。御想像下さい。そしてあけたをりのうれしさ。これも御想像下さい。》(昭和十六年七月十六日)
本書には、昭和八年から十九年までの、高祖保が井上多喜三郎に宛てた書簡が収められているが、そこには戦時下の不穏な空気をほとんど感じさせない二人の濃やかな友情、そして井上の個人雑誌『月曜』をはじめとした詩や文学を愛する人々の雑誌発行に対する情熱といったものがひしひしと感じられる。岩佐東一郎、百田宗治、堀口大学、田中冬二、長谷川巳之吉らの動向がうかがえるのがまた貴重でもある。
昭和十九年七月、井上が戦地へ出発する高祖にひと目会いたいと京都伏見へ出かけて行くが、会えなかった。高祖も滋賀の井上を訪ねようとするが、急な出発でかなわない。なんとも切ない。高祖は昭和二十年にビルマで戦病死。井上も二十年に召集され朝鮮半島北部で敗戦を迎えシベリア抑留を経験した。
高祖保や井上多喜三郎について知識はなくともじつにうるわしい内容の手紙だし、戦時下の詩人たちに興味をもつむきにはきわめて貴重な資料となっている。外村氏の懇切な解説もまた労作。限定五百三部。
龜鳴屋
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