記載が前後するが、二十九日は大阪の高津宮で「生田花朝女三十年祭」の神事が執り行われた。本欄ではおなじみの橋爪節也さんが首唱、肥田皓三先生はじめ大阪研究の橋爪ファミリー集合の感あり。生田花朝女については当日示された死亡記事(毎日新聞、昭和53年3月31日朝刊)を引用しておく。
《生田花朝女(いくた・かちょうじょ、本名ミノリ、大和絵画家)二十九日午後七時五十五分、老衰のため、大阪市阿倍野区帝塚山[略]の自宅で死去、八十八歳。告別式は三十一日午後一時半から自宅で。喪主は養女美津子(みつこ)さん。
二十四歳で、最後の大阪人といわれた菅楯彦(すが・たてひこ)に入門。絵はもちろん有職故実から万葉、源氏の古典まで勉強。絵は大阪風俗一本ヤリで取り組み、帝展九回落選のあと大正十四年に初入選。同十五年、大阪を代表するまつり「天神祭」を描いた作品で、女性で初めて同展の特選受賞、話題となった。
自分の幼い日の思い出を、女らしいこまやかな筆でいきいきと描き、風俗画の第一人者といわれた。画壇につくした功績により昭和二十七年、大阪市民文化賞、同三十三年、大阪府芸術賞を受賞した。
大阪の考古学の草分けといわれた生田南水の三女で、絵に夢中になったため結婚の機会がなく独身を通した。「こんだけ大きかったら、なんぼこんな時代でも、当分はどないもされへんやろ」と四天王寺と住吉神社に高さ一・八メートルもあるでかい父の句碑を建てたことも。“文化ルネッサンス”に情熱を燃やし、帝塚山の自宅はいつも千客万来だった。女の弟子はとったが、職業画家志望者は相手にしなかった。》
肥田先生ご持参の雑誌『芽やなぎ』(昭和二十七年四月〜二十八年八月)。北新地の柳月堂菓子店の宣伝冊子である。花朝女の木版画で飾られており、たいへん愛らしいもの。
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上に引用した新聞記事は北川久氏の持参されたものだが、その死亡欄の下に「雑記帳」というコラムがあった。ある教材メーカーが誤字、あて字を募集したところ珍体験が集まったという内容。
《入院中の恩師に大学生が「墓(暮れのつもり)もおしせまり」と見舞状》
《「熟考」を小学五年生が「塾考」に。当て字では「戦争箒(放棄)」を代表に「博愛主義」が「薄愛主義」/「東洋漢字」(当用漢字)「耳話器」(受話器)「初女」(処女)などもあり、若い世代がいくら活字離れしているといっても、目を覆う惨状だ》
三十年前というと、小生も大学出たところ。ずーっと活字離れと言われてきたようだ。