
予定よりもかなり手間取ってしまったが、ようやくできました。「佐野繁次郎装幀図録」巻頭カラー16頁を含む40頁の特集です。目次等については
spin news を参照してください。神戸の海文堂書店にはもう並んでいますが、東京堂書店その他の一部書店にもぼちぼち出回ると思います。直販もどうぞよろしく。
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ちょうど佐野繁次郎の装幀本『雲の中を歩んではならない』(桑原武夫、文藝春秋新社、一九五五年)を某氏より頂戴した。なんということもないようだが、カバーの地はキャンヴァス(絵画用)を撮影したもので、さらに透明のビニール・カバーがかけてあり、その上に帯のように見える黒い文字が印刷されている。表紙は三方折り(いわゆるフランス装)だし、じつはかなり凝った装幀なのだ。
桑原は「書物ぎらいの読書人」でこう書いている。ちなみにこの時代、旧かななどとんでもない、漢字もなるべく使わないようにする風潮(ムーヴメントかも知れない)があったように思う。澁澤龍彦が渋沢竜彦だった時代である。
《私の父は世事にわき目をふらぬ学究であり、くら一ぱいにためこんだその蔵書の量は京大一といわれた。私はそうした書卷のうちにそだち、幼時からメチャクチャに乱読したが、同時に、書物に対する食傷感をつとに体内にうえつけられていた。商売の必要上、また時世もよくて、少しばかし本もたまったが、もともと集めようなどという野心はさらになく、珍本は大きらいだ。中国の宋版といったものならいざしらず、十八・九世紀あたりの、ざらにある本の初版などをトラの子のように珍重する趣味を、私はアホラシイと思うばかりである。作品は誤植のない完本でよむのが正道なこというまでもないが、フランス語がやっと読みの下る程度の学力で、スタンダールのシャンピオン版を見たいとか、コナール版がないからボードレール研究が進みかねるなどというのを聞くと、笑いたくなる。安本のザラ紙にのった詩句のうちに無限に心をゆすぶる美を発見した喜びを知らぬものとは、共に文学を語ることはできない。
芸術のための芸術お同様、読書のための読書ということを私は信じることができない。純粋な文献学者ならいざしらず、ふつうの人間にとって本は究極において生きるために読むのである。》
一読、矛盾している。《珍本は大きらいだ。中国の宋版といったものならいざしらず》とはあきれてモノが言えない。珍本は好きだってことじゃないか。最後の「生きるために読む」ということを桑原が実感したのは、登山の仲間たちと知り合ってからだと、この後に続けているのだが、なんと、買ったばかりの高価なイギリスの登山記を無造作に破ってメモ代わりにする友人の行為を目の当りにして、それを悟ったというのだ。まったく。
要するに本は道具だと言いたいのだろう。だが《安本のザラ紙にのった詩句のうちに無限に心をゆすぶる美を発見》するのは「生きるため」ではなく「生きないため」、吉田健一が宣言しているように読書は「時間つぶし」のためにあるのだ、ということになる。感動は必要としても、研究とは根が別であろう。