『風景』終刊号(悠々会、一九七六年四月一日、表紙=風間完)。昭和二十四年八月三日に「キアラの会」の第一回会合がもたれた。野口冨士男によれば、「ある人」からこういう会を始めたいからと相談があって舟橋聖一らに持ちかけたところ、舟橋は「ある人」をはずして、舟橋、豊田三郎、船山馨、北條誠、八木義徳、三島由紀夫、野口の七人でスタートさせた。文士たちの親睦会である。
そして昭和三十五年に、紀伊國屋の田辺茂一から、都内の書店でつくる団体「悠々会」がサービスとして配る雑誌を出したいのでその編集を引き受けてくれという話があった。キアラの会で相談したところ野口に一任することとなり、その年の十月に創刊号が発行された。
「風景」という名前は野口が北原白秋の雑誌『近代風景』を提案し、近代を取って『風景』とのみ命名された。表紙画の風間完はちょうど舟橋聖一の毎日新聞連載小説「新・忠臣蔵」の挿絵を木村荘八からバトンタッチして描いていたので、担当の日下令光が依頼した。編集長は初代が野口以下、有馬頼義、吉行淳之介、船山馨、澤野久雄、八木義徳、北條誠、野口、八木、吉行。編集室は渋谷の田辺邸、費用もすべて田辺がまかなっていた。
田辺の文章によれば《今更、赤字の総額など報告しても致し方ないが、年月を加算すると、二千万ちかくになろうかと思われる》。ただ、配りものなのだから、田辺のこの言い方はちょっとおかしい。田辺は雑誌が好きで戦前からいろいろ刊行しているけれど、長続きしたことがない。本人も飽きっぽいと書いている。本心は早く止めたかったのだろう。ところが『風景』は例外的に続いた。これはひとえに舟橋聖一の執念による。だから舟橋が死んだとたんに終刊となった。
野口の言う「ある人」が誰なのか気になるところ。ひょっとして川端康成か(?)。山口瞳が舟橋追悼文に《川端さんと舟橋さんは仲が悪いと思っていた。そういう噂を聞いたことがある》と書いている。だが、川端はノーベル賞受賞前後の多忙にもかかわらず「落花流水」「一草一花」などを『風景』に連載した。川端という人は不思議な人だ。
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ペリカン書房のレッテルを某書店さんより頂戴した。これはレッテルというよりもノートブックを小さく切ってペリカンのゴム印を押しただけの手製の書店標。「心影」とあるが、「日本の古本屋」には今のところ、完全一致ではヒットしない。『心影・書影』(柳田泉、桃源社、一九六四年)ならたくさん出ているが。国会には二点あった。
『心影』山崎為人(瑠璃社、一九四一年)
『心影』綾瀬耿美(弦洋社、一九三三年)
山崎為人の句集かもしれない。ペリカン書房については下記サイト参照。
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本郷界隈をあるく
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ペリカン書房(ペリカン・ランチルーム)
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ペリカン書房品川力追悼特集
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『英吉利単語篇』の出所が判明した。詳しくは下の2月19日欄を参照のこと。