『野草』第三号(加納成治、一九八二年八月)、四号(加納成治、一九八三年一二月)。街の草・加納さんの個人雑誌。発行は二十五年前、ということは加納さんは三十代初めか。
《どのような個も、日々繰り返すところの生活の過程から逃れられる訳でなく、その過程のなかで、書くという行為に執着するのはどんな理由があるのか? むしろ「ただ自らの生活を充たすことを希う」人々の沈黙を。自らの表現のうちに孕むこと、にその根は置かれるべきではないのか? その沈黙とおまえの書き記すことばとは、どのように拮抗することができるのか?(飛躍、だろうか? 私のことば、としてはウソ、なのか? 身のほどしらずに、ということなのか?)……そういった思いを幾度も繰り返してきた。その思いに比して、私の書き得た僅かな言葉の貧しさ。……だが、何であれ、これらの言葉は、私にとっては意味を持ち得たはずではないか、それでなくばものを書く、といった行為など成り立たぬはずのものではないのか。》
これは三号の自問自答より。じつにまじめです。四号では鮎川信夫と北村太郎の対談(「現代詩セミナー」一九八三年九月、八尾西武百貨店)の報告が掲載されており、そこでは十五六で詩を書きはじめたころ
鮎川の「死んだ男」に出会った衝撃が語られている。
芦屋古書即売会の目録が届き、その目録のデザインが加納さんの手に成るということで、思い出して『野草』を取り出してみたわけである。芦屋の目録には明尾圭造さん、加納さん、大安さん(ロードス書房)が文章を書いている。
加納さんは神戸の市会で関西学院普通部の生徒だった稲垣足穂が寄稿している『関西学報』四冊などを入手した経緯とその概要について報告。むろんそれは全集にも去年の『ユリイカ』の足穂特集号にも掲載されていない新発見である。ちょっと残念なことに、目録の最初に掲載されているその図版の解像度が低くて不鮮明だ。
加納さんがレイアウトしたという表紙、版画は『ドノゴトンカ』一九二九年三月号から引用されている。ちなみに『ドノゴトンカ』とは、城左門 (昌幸)、岩佐東一郎、木本秀生、堀河融、西山文雄の五人による同人雑誌。誌名はジュウル・ロオメン『科学の奇蹟』 (第一書房、一九二五年) からとのこと。
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京都駅のとなりに新しくオープンしたビックカメラへ。ついでに昼食を伊勢丹の
京都拉麺小路でと思ったが、以前出店していた「桂花」がなくなっていて、断念。他の店はどこもけっこうこってりしている感じだし、行列がどうも苦手。それにしても京都駅ビルはいつ来てもへんな建物だなあと思う。
異国の人にも湯気や冬に入る