岡崎氏より『古本病のかかり方』(ちくま文庫、二〇〇七年、カバーデザイン=石丸澄子)届く。うれしく再読。面白い。「文庫のためのあとがき」に元本(東京書籍、二〇〇〇年)が《古本っぽくなってきた》とあるが、古本ネタはまったく古くなっていない(「古本はあたらしい」!)。もちろん周辺の出来事などはさすがにややなつかしモードに入っているものの、そのギャップもまた文庫らしくて悪くない。古本屋もあんがい潰れていないのだ。
岡崎氏がいきいきと古本を語る、その語り口がどこかまだ新鮮味を帯びている。楽しくてしようがない感じが横溢しているように思う。だから読んでいるこちらも自ずと楽しくてしようがなくなるのである。
少し前にここで文芸雑誌と時刻表について触れたとき、岡崎氏がそのことについてどこかに書いていたと思ったのだが、見つけられなかった。それは『古本病のかかり方』の「夜汽車には「小説新潮」がよく似合う」だったのだ。いや、参考になりました。長距離列車の友として中間小説雑誌が売れた時代があった。
それにしても、昔から感心するのは、形容の巧みさである。要所要所にさりげなくみごとに収まっている。例えばBGMに日本のフォークソングが流れていた大阪の空閑文庫を語るくだり。
《店主はヒゲ面、長髪で、そのまま「私たちの望むものは」を店内で歌いだしても不思議はない雰囲気だった。ここは人文書、文芸書など品揃えはよかったが、千林商店街と言えば、大阪のおばはんが左手にイカやきを持ちながら、ダイエーで特売の下着を買うような土地柄なので、少し高踏的すぎたかもしれない》
河童本、蛙本をはじめとして、本になるほどなという呼び名をつけるのも岡崎流。
《評論家の坪内祐三さんは、本以外にあまり買い物をしないため、自分のためにその日何か買って帰る本のことを「おみやげ」と呼んでいる。これまた、言い得て妙である。わたしの場合はこれを「おやつ」本と称していた。下宿に溜め込んだ本は主食のご飯。それに加えて、ちょいと一品か二品、その日少しばかり楽しめる甘いものがほしくなるわけだ》
《どうしてもと強く魅かれて買ったわけではない。なにやらゆかしスミレ本として、一応つまみとして一品買っておくか、のレベル》
《なにやらゆかしスミレ本》とはうまい。ほんとにそういう感じのする古本というのがあるのだ。先頃出た『中央公論』の古本入門特集でも感じたが、一般の人に古本の面白さを説き聞かせたらピカイチなのもこの文章力あってのこと。しかもその説明には《古漬けのナスやキュウリのようになった》古本おやじでも改めて教えられることは多い。
『古本病のかかり方』を読み終ると、むらむらと持っている古本を取り出して点検したくなる。楽しい忘れ物が挟まっていないか、不審な書き込みを見落としていないか、探したくなる。古本病とはそんな無駄な元気の出る病気のことだったようである。
息災に一病ありて冬支度