「古道具と綴られた記憶」で購入した古いトランプ。まったくのバラバラ、いろいろな模様のカードが混じっている。むろん不揃い。印刷はステンシルか、コンニャク版のようなものではないだろうか。絵札はあらためて紹介する。
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先日、日動画廊が出していた『繪』(一九七三年十月号)を水明洞の前で百円で買ったのだが、なかに曾宮一念が「中村彝むだばなし」という中村彝との親交を書いた一文があった。そこに《日暮里の飯屋の二階から落合の画室に移ったのは大正五年初夏》とある。中村彝(なかむら・つね)も日暮里族だった(!)と思いつつ、『芸術の無限感』(岩波書店、一九二六年)の年譜をあたると正確には以下のような住み方だったようだ。
《明治四十二年(二十三歳)
二月、東京府下田端村日暮里に移る。[略]
明治四十三年(二十四歳)
六月、日暮里千六十六番地晩翠館に移る。[略]
明治四十四年(二十五歳)
十二月、府下淀橋町角筈十二番地中村パン屋裏の故荻原碌山のアトリエに移る》
ただし中島岳志『中村屋のボース』(白水社、二〇〇五年)によれば、中村屋の裏のアトリエは荻原碌山ではなく柳敬助が使っていた。碌山が柳のために作ったのだそうだ。その完成の日に碌山は大量に喀血して死んだ。三十歳。
結婚してアトリエを出た柳の後に中村彝が住み込んだ。同じころ、中村屋を興した相馬愛蔵・黒光の長女俊子が実家の穂高から上京し、ミッション・スクールに寄宿するようになった。週末ごとに中村屋に戻る俊子を彝はモデルとして描きはじめ、俊子は秘かにヌードにまでなる。彝は俊子と結婚したいと相馬黒光に申出るが拒絶され、アトリエを去った。大正四年四月、下谷区初音町有楽館に移り、五年には府下落合村下落合四百六十四番地にアトリエを建築して移り住む。文部省美術展覧会への入賞が続き、後援者にも恵まれた時期だった。
上は『繪』に掲載されている未完成の「少女」。俊子がモデル。彼女はインド独立運動の闘士で中村屋にかくまわれたラース・ビハーリ・ボースと大正七年に結婚して二児をもうけるが、大正十四年三月に肺病で亡くなる。二十八歳だった。中村彝はその前年の十二月二十四日、落合の自宅で大喀血をして窒息死していた。三十八歳。下はボースと結婚していた頃の俊子(『中村屋のボース』より)。
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流星の限りなき夜や札数ふ