大田貫教授から頂戴した『創元』をずっと見ていて、162号(創元社、一九四二年五月)に二科会の創立会員である画家の石井柏亭が「道灌山」というエッセイを書いているのが目に留まった。
《私の住む此道灌山が渡辺町と云ふ住宅地になつたのは、今から二十五年の昔大正五年のことであり、其翌六年にここへ家を建てた私などは其草分の方である》
『毎日年鑑1931』によれば当時の石井柏亭の住所は東京市外日暮里渡辺町一〇三五。現在の住居表示で言えば、西日暮里四丁目、西日暮里駅の周辺、要するに南陀楼綾繁氏の「けもの道」のすぐそばである。
田端文士村サイトの「
田端に移り住んだ芸術家、文士及び著名人たち」を見ると、大正十二年に久保田万太郎が日暮里渡辺町筑波台1032番地(ちなみに『毎日年鑑1931』では東京市外日暮里一〇八九)に、野上豊一郎が大正九年、日暮里渡辺町1040番地に転入となっている。柏亭と万太郎とは隣同士、豊一郎もごく近所だったようだ。田端芸術村は最近ちょっとしたブームらしいので、柏亭のこの文章からそれらしい箇所を抜き書きしておく。
《渡辺町には彫刻家が多く住んで対[ママ]た。石川確治、渡辺長男、吉田白嶺、建畠大夢、毛利教武の五氏であつた》《画の方は寛畝門下の倉石松畝氏、日本美術院の長野草風氏と確治氏夫人の丹麗女史と私となどである》《建畠氏の所は最も廉かつたので、私もはじめ其処にしようかと思つたが、隣の脳病院から狂人の声が漏れると聞いて、これをやめにし、現在の処に定めたのであつた》《崖沿ひの路は昔ながらのものであり、諏訪神社の台を降り切通しを過ぎて今開成校の脇を登り一旦一寸さがつて又登るやうになる》《諏訪神社の台と開成中学との間の切通しは今拡大されて、道灌山下から三河島に通ずる大路となり、西新井橋行のバスの通路となつて居る。省線のガードをくゞつて一寸行くと今一つガードがあるが、そこに道灌山通と云ふ京成電車の駅がある。上野の美術館へ行くにはこれが最も便利なので、私はよくこれを利用して居る》
文中の建畠大夢は建畠覚造の父。覚造の子息が国立国際美術館の館長・建畠晢氏。氏は高見順賞を受賞した詩人でもある。
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メール便を出しにセブンアンドアイまで歩いている途中で見つけたカナリー椰子。実がたくさんなっている。オレンジに色づいて落下する。ここはレストランの門口。ランチ980円とかで行列ができていた。昨日、隣家のご老人より五十年前は田圃の真ん中だったという話を聞いたばかり。
椰子の実のつぶての降りし五十年