『女性』第二卷第九号(新生社、一九四七年十月)。表紙は東郷青児。西脇順三郎が「ヂョイスについて」という題で二頁ほど書いている。とても分かりやすい文章で教えられることが多かった。
《ヂョイスは世界の文学を読んで、そこから面白いものを記憶として集めやうとしてゐ作品を作るのが彼の作品をつくる最初の趣味であるとさへいふことが出来る。「ユリシーズ」などは、彼が万書を読んで面白い材料を書きとめてあつたノートが行李に幾つもあつたといはれてゐる》
そうか、「ユリシーズ」はダダ的なコラージュ表現だったのか。雑誌連載は一九一八年から開始。シルヴィア・ビーチが少部数出版したのが一九二二年だから、時代的には合致する。細部へのこだわり、すべてを等価(神でさえ)に表現しようとしているところはポップアートだ。
《この本が出た当時自分はロンドンにゐたが、本屋へ行つてきいたら、公然と発売を許されなかつたので、店頭に出せないで、奥の方から出して来てくれたことを記憶する。また当時自分が、つきあつてゐた文士の家でさへ、その本は悪魔の如くまた恐ろしくきたない本として、そのへんに置かず、箪笥の中にしまつてゐた程であつた》
そして「フネガンズ・ウェィク」についてはこう書いている。
《この小説では意味の世界と音の世界とが、新しい言語によって交錯されそれが美しい新しい文学の表現形態が発明されてゐる。これはヂョイスがひとり大胆にふみ込んだ新しい文学である。この小説の一部分を作者自ら蓄音機にふき込んだのが残つてゐるが、これを聴いた人達は、この新しい音楽、この新しい文学の味を知るだらう》
やはりダダイストのクルト・シュヴィッタースの「メルツバウ」を連想させる。シュヴィッタースは道に落ちていたゴミを素材として造型作品を作り上げたのと同じように、どこにでもある音のゴミを集めてそれをノイズの構築物に仕上げた。とまあ、西脇先生のこの文章はじつに有益だった。
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E川氏から頂戴した佐野繁次郎装幀本、三島由紀夫『仮面の告白その他』(改造社、一九五一年)。せっかくだからと「日曜日」という短篇を一つ読んでみた。役所に勤める若い男女が日曜日ごとにスケジュール手帳を塗り分けてデートをしているという話。熱の入らない退屈な描写だと思いつつ最後まで読んでギョッとした、というかそれが狙い。こしゃくな作家だ。なんとも暗示的な……。
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扉野氏より「うずまき豆」なるものを頂戴した。長野県産だそうだ。テーブルの上に出しておいたら、ナベツマがマーブル・チョコレートと勘違いしてかじりつこうとした。