石川一口講演、丸山平次郎速記『伊達与作』(駸々堂、一八九九年)。石川一口は大阪で有名だった講釈師。法善寺境内に、こちらも名高い「夫婦ぜんざい」に並んで石川一口の講釈小屋があったそうだ。伊達与作は丹波篠山で馬追いをしていたのが、文武に励んで、江戸で立派な武士になった、類いまれな出世をした実在の人物らしい。
延宝五年(1677)に京都の役者嵐三右衛門が初めて丹波与作の物語を演じ好評を得、近松門左衛門が「丹波与作待夜の小室節」(宝永年間1704〜11)という浄瑠璃にし、吉田冠子・三好松洛作「恋女房染分手綱」(宝暦元年・1751初演)でも三吉(与作と重の井の子)と重の井の別れのシーンはお涙頂戴の見せ場となっている。
これは貸本だったため別の表紙が付けられていて、上図の絵のあるところが本表紙になる。本文用紙は講談本らしく粗末ながら、多色木版画の折り込み口絵は華麗である。絵の作者について、署名はカイ(こざとへんに界)泉と読めるようだが、まだ調べていない。達者な筆だ。
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用美社の加藤一雄情報が入った。ようやく入稿となったようで、六月中には出来の見込みらしい。時間をかけただけのことはきっとあるのだろう。期待しよう。
もうひとつ。例の、あの、待ちに待った古書目録、やっと完成だとか。来週中には届くらしい。どんなふうに仕上がっているのか。いよいよ楽しみである。
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ようやく流し台の配水管が直った。流し台メーカーのおじさんが修理に来てくれた。
「これはステンレス・ホーロー流し台としてはいちばん最初の製品ですなあ」
と言われて驚くナベツマ。ステンレス・ホーロー流し台とはシンクがステンレスで扉などの外装がホーローになっているタイプ。
「でも今ごろのもんとはステンレスの厚みが違いますよって、ビクともしてませんなあ」
最近はステンレスが薄く、十年も使えばシンクそのものが傷んでしまうのだとか。そう聞いても、嬉しいような、嬉しくないような。できれば流し台ごと取り替えて欲しかったナベツマであった。
ちなみにナベツマの生まれた一九五六(昭和31)年、住宅公団が「晴海団地」にステンレス流し台を採用して、本格的量産体制に入った。一九八〇年には85パーセントの普及率。