どうしてプロ野球の判定にヴィデオを使わないのか? 今夜の阪神・横浜戦、TVを見ているすべての人間はバットにボールが当たったことが分かっているのに、審判だけが分からない、これはおかしいだろう。
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古書の森日記に、『婦人画報』の創刊号(明治38年7月1日発行)の復刻版を購入したところ「女学校の西洋画教室」と書かれた写真があったが、《この女学校でモデルになっているのは、上半身裸になったおじいさんだった! 写真が鮮明ではないのでよく見えないが、どうもステテコ一丁になっているらしい》という記事が出ていた。そのコメント欄に2反田さんが、こう書き込んでおられた。なるほどである。
《近藤浩一路『校風漫画』(博文館 大正6年)に、「女子美術学校 洋画部」が取上げられています。男性モデルが下半身を白布で覆い、その背後に女学生達が集まってデッサンしている様子が描かれており、この頃はさすがにステテコ姿は止していたようです》

これは『東京パック』(明治42年12月10日号)から取った図版の孫引き。窓から覗く男がいて騒ぎになっている場面。画学生たちの風体や年齢がじつにさまざまである。女子学生もいる。
日本の美術モデルについては
美術モデル歴史年表が簡単に整理してあって概念をつかむのにはちょうど良いようだ。明治以前についてのコメントにはうなずきかねるところもある。
木下直之『美術という見世物』(平凡社、一九九三年)によれば、幕末の人形師・松本喜三郎は数々の迫真的な生人形(いきにんぎょう)を制作して各地で興行していた。ヒュースケンは安政五年(1858)に浅草で大量の等身大の裸体人形を目の当たりにしている。それらがきわめてリアリスティックな作品だったことは遺品や写真から想像できるし、いわゆる「美術」なるものかどうかは別として、「芸」の範疇に位置づけられていたことはたしかである。裸体美術は明治以前にも存在したし、裸婦の写生ということも、応挙の例を挙げるまでもなく、行われていたに違いないのである。

こちらは北沢楽天「女給料取りのいろいろ」(『東京パック』大正4年10月15日号)。上の三人は水商売、下の三人は事務員、女給、女工。その中間左端に恥ずかしそうにしているのが裸体モデルである(清水勲『近代日本漫画百選』岩波文庫、一九九七年)。
先日、帽子屋の図版を引用した『巴里絵日記』の橋本邦助は明治四十三〜四年の間パリに渡っていた。パリで初めてモデルを使う研究所を見学したとき、こういう感想を残している。
《こゝでは既に形が極つて、モデルが後向きに立つてゐた。髪の毛の黒い、色の白いイタリアの女で、手や足の釣り合ひが申分のない位よく整つてゐる。自分等が終始日本で見てゐた、頭の大きい胴の長い、足が短かくつて太い、手首に締まりのないモデルとは大分違ふ》(p46〜47)
ちなみに『明治のことば辞典』(東京堂出版、一九八六年)によれば日本語としての「モデル」が現れるのは明治三八年だとか。しかも「ひながた」「てほん」などの意味でしかなかった。