洲之内徹の流れで大川榮二『美の経済学』(東洋経済新報社、一九八九年三刷)を読んでいると、松本竣介のアトリエ写真が出ていて驚いた。あわてて
生誕100年展の図録を繰って記録写真の頁を見ると、アトリエの前および内部で竣介を撮った写真はいくつかあったが、これらは収録されていなかった。歿後の写真でもあるし、それでいいのだろうが、竣介ファンには貴重な記録である。大川氏は竣介のコレクターとして知られる人物。
大川美術館を設立した。
《それは秋も深まった昭和四十八年のある日だったか、下落合の松本禎子さんから大阪の拙宅に電話があり、「アトリエが傾き補修困難のため取り壊すことになったが、その前にぜひお知らせしたい。もし上京されるならその時まで工事を延ばしたい」とのこと。年末を控え、あまりに忙しい仕事に埋没していた私だったが、何か肉親の弔報をつきつけられたような焦燥感と限りなき愛惜がふき出し、どうにかスケジュールをやりくりし三日後上京した。》(竣介余韻、以下同)
昭和四十八年! その頃までアトリエがあったのだ。小生が大学入学のために上京する前年である。
《さて、上京の晩は夫人のご好意で、最後のアトリエの客人として、竣介愛用のベッドで泊まったものである。約一二坪半ほどの広さで、竣介の絶筆の一つである「彫刻と女」、中期の代表作「黒い花」を初め、一〇点位の絵が雑然と、しかし何気なく整理され、大きなイーゼルの横には彼の愛読した哲学書、バルザック、トルストイ、ロマンロラン、その他が可能な限り生前のままに近く保存されている。》
《また当時二歳で父を失い、絵を通じてしか父を識らぬ次女京子さんを交え、夜半まで竣介の遺稿やデッサンをみながら語り合う諸々の中で、彼が次男莞君の描いた童画を丹念に整理しており、その包装の上に、「何げなく描いた子供の絵の中に素晴らしい新しい何かが見出され面白い」という遺筆を見出した。》
《それから三日後、アトリエは取り壊され、そこには今は莞夫婦の新居が建てられている。私には淋しいかぎりだが、地下の竣介は、自分が少年時代の難聴のため、なりたくてもなれなかった建築家に成長した一児莞君自ら設計のものだけに、この新居を心から喜んでいるに違いない。》

この写真は
生誕100年展の図録より「婦人之友社時代の禎子、1932年頃」。大川氏は禎子夫人についてこう書いている。
《当時大学教授を父に持ち、第一線の婦人記者でもあったことを思い合わせ、聴覚を失った無名画家だった竣介のところによく嫁したものだと……。そしてまた、竣介没後、生前二人で色々なものを生み出そうとして名付けた「綜合工房」の看板を細い腕一つで守り続け、アートディレクターの仕事を今も立派に経営しておられる、何か強い支えをはっきりとみた感じであった。》
それにしても松本竣介のアトリエ、残して欲しかった。
佐伯祐三のアトリエは修復されてきれいになったようだが、竣介のアトリエこそ、訪ねてみたいような気がする。