
『民藝の仲間』第9号(劇団民芸、一九五三年)、表紙=河野鷹思。

『民藝の仲間』第13号(劇団民芸、一九五四年)、表紙=河野鷹思。なかのしげはる「アメリカを知るために」が掲載されている。

『民藝の仲間』第53号(劇団民芸、一九六〇年)、表紙=田中一光、宇野亜喜良。

『民藝の仲間』第62号(劇団民芸、一九六二年))、表紙=デザイン・田中一光、イラスト・横尾忠則。

『民藝の仲間』第63号(劇団民芸、一九六三年)、表紙=デザイン・山城隆一、イラスト・横尾忠則。

『民藝の仲間』第85号(劇団民芸、一九六六年)、表紙=デザイン・田中一光、イラストレーション・和田誠。

『民藝の仲間』第127号(劇団民芸、一九七〇年)、表紙=長友啓典。
「どん底」の話題を取り上げたので、その流れで劇団民芸のパンフレットを出してみた。一九五〇年代から七〇年代へ、日本におけるデザインあるいはイラストレーションの変遷がはっきり分かるように思う。
和田誠『銀座界隈ドキドキの日々』(文春文庫、一九九七年一月一〇日)によれば、和田が多摩美を卒業してデザイン会社ライト・パブリシティに入って間もなく(一九五九年)のこととしてこう書かれている。
《田中一光さんは会社の仕事のほかに音楽会や新劇のポスターも手がけていた。アートディレクターとして、イラストレーターを起用することもあった。ある日、君の絵をポスターに使いたいと言われ、打ち合わせのために田中さんのお宅に行った。田中さんはけじめのきちんとした人で、会社以外の仕事の話を会社ではしないのだった。
最初にぼくの絵が使われたのは「火刑台上のジャンヌ・ダルク」だったと思う。その後「ウィンザーの陽気な女房たち」「どん底」などのポスターに、田中さんはぼくの絵を使ってくれた。その度に会社の帰りに青山一丁目にあったお宅に出かけたが、そんなある夜、もう一人ぼくと同年輩の男が訪ねて来ていた。田中さんは彼を「神戸から出てきて、今はナショナル宣伝研究所に勤めている横尾忠則君」と紹介してくれた。ぼくはとっさに「あ、"ふしぎなふえふき"の横尾さんですか」と言い、ぼくの名をきいた彼は「"夜のマルグリット"の和田さんですね」と言った。どちらも同じ頃に日宣美で賞を取った作品の題名で、あのころはみんながそんなふうに他の人の仕事に関心を持っていたのだ。》
ここに掲げた「セールスマンの死」は一九六六年だから、和田誠は矢崎泰久といっしょに『話の特集』を創刊(一九六六年二月)した頃である。和田はアートディレクションから編集にまで関わり、表紙は和田の主張によって横尾忠則が担当した。

すこし後年になるが『話の特集』131号(一九七六年一二月)、横尾忠則の表紙。『民藝の仲間』表紙とは十数年を隔てている。