『パリの日本人』の「人間交差点・松尾邦之助」を読んでいて『彷書月刊』二〇一〇年五月号の松尾邦之助特集を思い出した。上は同誌より松尾の肖像写真《1927年、パリ14区に印刷所を開いたころ》。以前にも取り上げたことがある。
池内友次郎など
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ニヒリスト
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松尾がパリ大学高等社会学院を卒業しながらも食い詰め、パリ日本人会の書記を勤めたのが一九二五年三月。そこで柔道の普及を目的でパリへやって来た石黒敬七と親しくなり、石黒を社長とした日本語新聞『巴里週報』の創刊(同年八月)に尽力した。一九二六年二月に仏文の雑誌『ルビュ・フランコ・ニッポンヌ Revue Franco-Nipponne』(日仏評論)を中西顕政(三重県の富豪?)の資金によって創刊、二七年にはやはり中西の発案で十四区のラミラル・ムーシェ通りで出版・印刷業を始めることになる。その頃の松尾である。この雑誌の発行によって松尾はアンドレ・ジッドをはじめパリの文壇に多くの知己を得た。
これも同誌「蕗谷虹児の「巴里物語」蕗谷龍生さんに聞く」から《蕗谷虹児・りん夫妻 昭和2年、パリ・ヴォージラール通り93番地のアトリエにて》。虹児が渡仏したのは一九二五年、二十七歳、りん十七歳だったという。そこにこんなことが書いてあった。
《石黒敬七さんは柔道使節として派遣されて来たのかな。空気投げを必殺技とする柔道家で、同じ越後っぺだから、しょっちゅう虹児の部屋に来ていたみたい。柔道家だけに、りんさんがお釜で炊いてお櫃に入れたご飯をぺろりと平らげたそうです。金平牛蒡をつくったり、鯛を一匹買って来て刺身にしたり焼いたりして。鯛が、市場で、一番安かった。》
「どら」は安かったわけだ……。虹児は昭和四年に借金返済のために単身日本に戻るが、妻を呼び戻そうとしたときには彼女には恋人ができていたとか。
諏訪老人こと諏訪秀三郎(一八五五〜一九三三)について、鹿島本から簡単に要約しておく。秀三郎は江戸詰め紀州藩士・諏訪新右衛門の三男。明治五年(一八七二)に陸軍派遣の公費留学生としてパリに渡る。明治七年一度日本に帰り、井上馨の欧米視察に従って再びパリへ(明治十年春か)。明治十一年に帰国。陸軍省に十一等出仕として登録される。十二年十二月ベルギー人女性との結婚願いを政府に提出。十三年には三たびパリへ戻る。モンマルトル大通り(アヴェニュ・ド・クリシー六番地)に五間ばかりのアパルトマンを借りて日本旅館「諏訪ホテル」を始めた。開業資金はベルギー人の夫人の持参金だったという。
陸軍でのキャリアを捨てたのはベルギー女性との恋愛のためではなく、兄の岡本柳之助が明治十一年の
竹橋事件に連座し「奪官」の判決を受けたことが直接の理由ではないかという説(沼田忠孝)があるそうだ。陸軍には未来がないと見限って恋愛を取ったということらしい。
岡本柳之助は閔妃を暗殺した乙未事変(明治二十八年)の首謀とみなされることになるから、秀三郎の判断は正しかったのかもしれない。
秀三郎は、昭和八年(一九三三)二月、ベルギーのアントワープ近郊の運河で額にピストル貫通の跡がある死体として発見された。自殺か他殺かは不明だったが、石黒は二度目の妻の病気と死、ホテルの不振を苦にした自殺だろうと推定している。
パリにドラマあり。