『もうひとつの川村清雄展 加島虎吉と青木藤作・二つのコレクション』(目黒区美術館、二〇一二年一〇月二〇日)を借覧している。
川村清雄の代表作は「形見の直垂(虫干)」のようだが、個人的には断片的な作品しか印象になく、どういう作家なのかよく知らなかった。この図録は江戸東京博物館で同時期に開催された川村清雄展に合わせて目黒区美術館および那珂川町馬頭広重美術館の二つのコレクションで構成された展覧会のもの。しかしこれだけでも、おおよそのところは理解できる。川村については鏑木清方が次のように評しているのが的を得ているようだ。
《川村氏は明治期洋画家界の先駆者で、油絵の是真と云はれ、油彩で抱一から是真、省亭と伝はつた江戸好みの工芸趣味を特色とした人で、鮮麗な色彩と渋い味はひとを巧みに調和させた特異な存在だつた》(岩切信一郎「装幀意匠家・川村清雄」より)
本展の特色は装幀意匠に焦点を当てていること。川村は雑誌『新小説』(春陽堂)や『新婦人』(至誠堂)の表紙画を手がけ、大正三年頃まで五十点以上の単行本の装幀を行っており、それがまた、鏑木の言葉通りの渋派手な江戸好みの工芸趣味、ロコツな和洋折衷が何とも面白い。今どきの作家で比較すれば、ひょっとして村上隆かも(!)
川村のパトロンでもあった至誠堂の加島虎吉は出版界ではなかなかのやり手だったようだ。
加島は明治四年一月十日に但馬の国(兵庫県)豊岡に生まれた。御用商人の家に育ったと言われ、早くに上京して勉学しつつ石屋の小僧などもやり、夜店の本屋からたたきあげて書店界へ足を踏み入れたという。明治二十七年頃に古本・貸本業を始め、二十八年には日本橋区人形町に「至誠堂」を創業している。明治三十二年、新本・雑誌の取次・販売を開始。
明治四十一年頃(四十二年?)、日本橋本石町に新社屋を設立して出版業にも手を拡げた。処女出版は同郷の経済学者・和田垣謙三の『青年諸君』(一九〇九年)、これがよく売れた。本図録には百六十点以上の至誠堂の刊行物がリストアップされているが、手堅い辞書などの実用書を柱としつつ、大町桂月、村上浪六、渡辺霞亭らの作家や渋川玄耳、三宅雪嶺らジャーナリストの本もかなり出している。明治末から大正にかけての重要な版元の一つであろう。
ところが、大正十二年の関東大震災で痛手を被り、大正十四年には倒産の憂き目を見た。その後、取次部門を大誠堂としたが、これも大東館へと再編されてしまう(東京堂・東海堂・北隆館とともに四代取次時代に突入)。加島はしかし自宅で出版業を続けていたようで、少なくとも昭和四年までの出版物は確認することができるようだ。昭和九年歿。
誠文堂の小川菊松は至誠堂の番頭を勤めていた。小川菊松『出版興亡五十年史』(誠文堂新光社、一九五三年)および『回顧五十年 藤井誠治郎遺稿』(藤井誠治郎遺稿回顧五十年刊行会、一九六二年)に至誠堂の草創期についての情報が盛られているということである。