『早稲田をめぐる画家たちの物語 小泉清・内田巖・曾宮一念・中村彝』(早稲田大学會津八一記念博物館、二〇一二年九月二四日)図録より、小泉清「ベコニヤ」(一九一二年)。小泉清は小泉八雲の三男。この作品は清が早稲田中学に入学した年に描いたもの。美育部(美術部)に所属し委員として活躍したという。同級生に安藤更生がいた。
流行だったのかもしれないが、三歳年長の村山槐多を連想させるスタイルだ。色彩にみずみずしい感覚がみなぎっていて、好感をもつ。この展覧会は昨年十月に上京中に開催されていたのだが、足が向かなかった。図録を見ながら実物を見たかったなと少し後悔している。
《偉大な父・八雲の存在そのものも大きな重責となった。八雲の遺児たちは幼い頃から注目される存在だった。時局によっては、好意的にも批判的にも新聞記事に取り上げられたようで、その都度清は気を揉んでいる。清が画家として一人立ちした後も、その紹介には八雲の息子という言葉がついてまわった。》
「成人した八雲の子供たち/前列左から三男の清、次男の巌、長男の一雄、その後ろに妹の寿々子(小泉八雲記念館蔵)」。
《八雲の死後、セツ夫人やその子供たちを陰から支えた人に、当時、早稲田中学の英語教師をしていた會津八一と、セツ夫人の遠縁にあたる日本史学者の三成重敬(みなりしげゆき、一八七四〜一九六二)の二人がいる。會津が自宅の秋艸堂で開く研究会や勉強会には、一雄、清がそれぞれに参加していたし、成人した後も頻繁に書簡が交わされている。三成はヴァイオリン弾きとして不遇の生活を送る清を金銭面でも精神面でも支え続けた人である。清が京都に放浪していた時期も、しばしばその家を訪ねた。》
年譜によれば清が京都の映画館の楽士としてヴァイオリンを弾いていたのは大正十四年だという。
上は小泉八雲の書斎。下は清の画室の一部。昭和三十七年二月二十一日の夜。清はガス自殺した。
《ながらく小泉の絵は売れなかったから、撞球場を開きその稼ぎで暮らしていたことがある。のちに撞球場だったところを客間として使用していたが、その入り口のトビラのノブの下に「ただ今外出中」との張り紙がしてあった。
鍵穴に耳をあてるとシューシューとガスの音がきこえた。たまたま小泉家の右前にある篠パーマの三男が店の外にいたので、大声で「スマンが南側へ廻って寝室の窓を叩き割ってくれ」と頼み、私は私で大声で強引にドアを打ち破って室内に突入した。
[中略]
三十分ぐらいしたら、担架をかついだ消防士が三人現れ、清を外へ運びだしたが、門のあたりでその中の一人が「完全に死んでいる」と言った。そして小泉清はベッドに戻された。
「絵を描くということは死闘である」
そんな言葉が、死のベッドの頭の横の壁に書かれてあった。》(石井則孝「トナリのオジチャン 小泉清のこと」より)
現在では考えられない処置だろうが、清にとっては幸いだったのかも知れない。墓所は浅草の善光寺別院である。