
頼山陽に関する話も二度ほど出てくる。まずは硯についてのくだり。
《老山曰研ハ得かたきものにて其内真眼のあるもの甚だ稀なり 支那に留在中真眼あるもの漸く一研を見たり きらきらとして実に夜光とも云へく其後曽て見たる事なしと 山陽翁云真活眼吾唯河合漢年在江洲従董肆得一小佩硯命工改彫忽呈〓鵒重眼圜嬌瞳射人とあり余も五十年間一も見るなし 生涯にハ見たきものなり》
老山は安田老山(1830〜1883、文人画家、美濃国養老下生まれ、元治元年中国に密航)であろう。「眼」は端渓硯の石紋の一種(詳しくは「
端渓硯の石眼」など参照されたし)。河合漢年は姫路藩の家老河合寸翁である。
薄田泣菫「古松研」には頼山陽を贔屓にしていた河合寸翁と同藩の幕府の御附家老松平太夫が紫石端渓を賭けて碁を打つ話が出ている。昨年十一月に山陽の「薔薇園小稿」から引用した《
手自提携唯二物/一枚端硯一嬌児》は決して大袈裟ではなかったようである。
図録『野呂介石 紀州の豊かな山水を描く』より「頼山陽旧蔵 紫端硯」

もうひとつは山陽の人となりを示す逸話。
《山陽無口にてあれとも筆をとれはいかなる事もかゝれたり 或時書林手代来り書物代を乞しに 今日は留守なりといへと下女へ云ハれしを聞き 只今の声は先生にてはなきやといへは先生内より今手紙をやるといわれし 其応答をいやかられしものか》
借金取りに居留守を使うのがほんとうに無口なのかどうか(笑)。

『山陽先生』(京都府教育会、一九三一年九月二五日)より「先生の肖像」。