

写本『零録』を入手した。本文一行目に「横井鉄窓筆話 紅蕙山房主人」と書かれている。「鉄窓」はおそらく「鉄叟」であろう。紀州和歌山藩士。京藩邸奉行や軍事奉行を勤め、また詩文画を嗜んだという。明治四十年に八十歳で歿。『清人題画集覧』(文心堂、一八八二年)や『脱走始末』(横井精一、一九一三年)の著書もあるようだ。
今、詳しくは判らないのだが、この写本の書き出しが野呂介石の言行録から始まっているように、鉄叟には『介石雑話』という著述もあるらしいから、あるいはその著作からの引き写しかもしれない(?)。図録『野呂介石 紀州の豊かな山水を描く』(和歌山県立博物館、二〇〇九年)の参考文献には『介石雑話』が挙がっていないので確証が得られなかった。鉄叟の生没年は1827ー1907(日本古典作者事典)だから野呂介石の歿する(一八二八年)前年に生まれたわけで、雑話の内容は又聞きか文献(『介石画話』文政十二年1829、など)によるものだろうと推測できる。
横井鉄叟の個人情報に関することはわずかしか見えていないが、例えば、これなどはそのひとつ。
《余維新の際京師にあり 松菴長州より来りしと聞しゆへ 医艸老人より画を索めしに 久しく筆を廃せし故写すあたわすと伝言せり 松菴は長州にて奇兵隊に入り居し由也 此節はいかゝせしや》
鉄叟は文久二年(一八六二)に脱藩し京江戸間の国事に奔走したらしい。二年後に帰藩して京藩邸奉行となったそうだから、その時期のことを指すのだろう。松菴は浮田一蕙(宇喜多一蕙、1795〜1859、京都出身の画家、復古大和絵派、鉄斎の師)の子息で名を八郎というとある。

野呂介石「那智瀑布図」(文政九年1826)
例えば『零録』には田能村竹田とのやり取りが見えている。
《介翁六十の頃竹田来訪社友集まりて和歌川に遊ふ 何れも詩を作り又和歌を咏する者あり 介翁懐紙に詩を書て竹田に見せける 竹田其侭懐中せしかは側より翁の詩如何と問へとも竹田笑て答へす 後日これを聞ハ翁の高名なるに此の作世人に見せハ何となく先生の名も下がるべくかとかくせしとなり 誠に其思慮の深き感すべき事 翁那智瀑布の詩あり其外ハみず》
こういうことがあったかどうか、森銑三の「野呂介石伝の研究」(著作集第三巻所収)でも繙けば明らかになるかもしれないが、今、手許にないので何とも言えない(乞ご教示)。なお前述図録の年譜では田能村竹田が和歌山を訪れたのは文化八年(一八一一)介石六十五歳のときとされている。
《翁那智瀑布の詩》に関するものとして図録には介石が医師・華岡青洲のために描いた「那智瀑布図」(文政十年1827)と対になる七言絶句が載っている。あるいはその詩を指すか。
屢探屢写那智勝
三瀑奇絶最難画
々罷得否自不知
投筆嗒然問造化

野呂介石・松丘・崖南嶠「雅人参会図」(文化八年1811)。竹田が訪れたときにもこのような集会がもたれたのであろう。『零録』についてはもう少し紹介して行く。