
かぐら川様より
「どんたく図案社」の雑誌『図案と印刷』についてご教示いただいた。夢二の年譜は何度も読んでいるのだが、この件についてはさっと通り過ぎてあまり意識になかった。今、あらためて手近の年譜を読んでみると
大正十二年(一九二三) 40歳
五月、「どんたく図案社」結成の宣言文を発表。顧問に岡田三郎助、藤島武二の名が記される。
八月、『都新聞』に自作自画長編小説「岬」の連載を始める。
九月一日、関東大震災。本所の印刷所の全滅によって恩地孝四郎らとともに企画した「どんたく図案社」は、その機関紙『図案と印刷』と共に実現寸前に潰滅。
などとある。以上は『生誕二〇〇年記念竹久夢二』展図録(朝日新聞社文化事業部、二〇〇四年)の年譜から引用したが、それは《長田幹雄編「竹久夢二年譜」を基本に作成》したものである。上の写真も同書より。「大正8年から夢二のモデルをつとめたお葉(佐々木カ子ヨ)大正12年」と説明されている。はっきり、どんた「く図案社」の竹の看板が写っている。
かぐら川様は《『純正詩社雑誌』第2巻第1号の巻末に、『図案と印刷』六月号の広告が出ていた》と書いておられるので、宣言文を発表と同時に広告を打ったと考えていいだろう。九月まで六月号が刊行されなかったとは、一般的には考えにくい(ありえないことではないが)。幻の『図案と印刷』も存在しているかもしれない!
恩地孝四郎は「夢二の芸術・その人」(『書窓』夢二追悼特集、アオイ書房、一九三六年八月五日)では当事者ながら簡単にこう書いているだけだ。
《この芽は大正震災によつて潰れて了つたドンタク図案社の企画となつて伸び後年には榛名山美術研究所となつて果を結ぶべきであつたが、遂にその事なくして終つたのは遺憾の極みである》
この芽というのは夢二のデザイン方面の才能の萌芽をさす。