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季』第九十七号(関西四季の会=高槻市日吉台三番町4-16 舟山方、二〇一二年一〇月一〇日)
杉山平一追悼号を頂戴した。第四次復刊「四季」の関西在住会員によって結成されたのが関西四季の会だそうで、杉山平一さんの提案で誌名を「季」と決定したという。この号は杉山追悼一色。いつも思うのだが、追悼文というのは、追悼すべき人を語っているようでいて実はほとんどが自分自身のことを語っている。だからこそ面白い。
《最初の詩集を出すときにもずいぶんとお世話になった。ご迷惑をかえりみず、収録候補の原稿の束を送りつけ、批評を請うたのであった。しばらくして、その原稿が送り返されてきた。封をあけ、中を見ると、一つ一つの作品に短いコメントが添えられ、さらにそこには〇×が付されていた。これには少なからず驚いた。しかし今から思うと、杉山さんの詩と同様、簡潔で分りやすい評価の仕方であったと思う。余談になるが、後年、他者から同様の依頼を受けたとき、この〇×方式を拝借させてもらっている。》(高階杞一)
俳句や短歌にはよくある採点方式だと思うが、現代詩では珍しいことのようだ。杉山さんの詩がどうであるかはともかく、この方式は批評として厳しい態度を含んでいるだろう。杉山さんにはかなり辛辣なエッセイも少なくないことからもそれは推察できる。
その自分中心の追悼が追悼される本人に近接するのはやはり近親の方によるものであろう。令嬢の木股初美さん「父と暮らせば」は秀逸。
黒田三郎のときにも感じたけれど、女性陣の回想はとびきりである。
《朝食の後は再び新聞。父が読み始めると大抵ページがバラバラになる。元通りにたためなくなり、苦笑い。私の悩みの種は、父の新聞の切り抜きである。文芸批評や子供のつぶやきの言葉、新刊本の広告、時には珍しい建物の写真やデザイン広告まで、「これ、すごいな」と私に見せ、切り抜いてくれと頼む。机の周りには、父の小さな字で書かれたメモ書きなどとともに、切り抜きがどんどん増えていく。しかし、こっそり処分しようとすると怒られるのだ。》
《父の二階の書斎は、三方を本で囲まれており、本棚に入りきらない本がソファやテーブルの上にもうずたかく積まれ、元の姿が見えなくなっている。元気な頃の父は、日中の殆どを二階の書斎で過ごし、本を読んだり書き物をしたりしていたようだ。晩年は、私が家に行くのを待って一緒に二階へ上がり、どっかと自分の椅子に座る。そしてぐるりと周囲を見回し、懐かしいものを見つけては手にとって眺めていた。》
《ある朝、まだ寝ていた父が「エッ」と大きな声を出したことがある。新聞を見ていた母が、三好達治が亡くなった、と慌てて父に知らせたのだ。三好達治が父にとってどれだけの人か、私は知らなかった。でもその時の沈黙、ただならぬ気配にドキドキしたことを覚えている。会社が大変な時で、汽車賃すらなく三好氏の葬儀にも行けなかったということを、私が知ったのはずっとあとのことだった。》
こういう情景は家族以外には知りようもないわけだが、杉山平一を理解するうえではとても大事なディテールのように思う。
Pippoさんも杉山ファンになられたそうで「ポエトリーカフェ杉山平一篇、あたたかな夜。」にはこう書かれている。《
あたしね。今回のポエカフェで取り上げるにあたり、杉山平一さんの生涯と、全詩作品を徹底的に洗い出したんだけど。ときどきに、なみだがでました。(続きは「ぴっぽのしっぽ」にてどうぞ)》