昨日、ロートレアモンの『マルドロールの歌』は戦争のために見本が数冊できただけに終わったと書いたが、その戦争というのがこの法普戦争(普仏戦争[1870-71]のこと。フランス語では guerre franco-prussienne あるいは Guerre franco-allemande de 1870)である。
今日届いた『日本古書通信』998号に八木正自「『法普戦争誌略』の成立とその周辺」という記事が出ていた。この本については四年ほど前にこのブログに書いたことがある(
渡六之助『法普戦争誌略』)。
八木氏によれば《ふっくらとした袋綴じの和紙に、立体感ある鉛活字の印字面。日本活版の父、本木昌造の4号活字で池原香穉版下の変体仮名も魅力あるものです。》とのこと。池原香穉は眼科医、国学者。肥前長崎生まれ。本木昌造の活版所創業時代を援助し自ら版下の筆をとったそうだ(
イケハラ カワカ)。
明治政府は普仏戦争を観戦させるため大山弥助(巌)、品川弥二郎らを派遣した。しかし一行がベルリンに到着したころには大勢は決していた。一行は陥落したパリへ赴き留学中だった渡六之助から戦況の詳細を聞き取った。渡は勉学の合間に新聞紙を精読して戦況に関する記事をまとめていた。大山弥助はその渡の「巴里籠城日誌」を持って帰国、明治四年六月に官版として御用書物師須原屋茂兵衛が出版したのが『法普戦争誌略』ということになる。
日本陸軍はフランス陸軍を模範にしていたが、結局はこの普仏戦争の勝者であるプロイセン陸軍のメッケル参謀少佐が明治十八年に陸軍大学校教授として招請され、その助言のもと大山巌らによって拠点重視のフランス式から機動性の高いプロイセン式へと改組が行われることになる。その師団制によって日清戦争に勝利するわけだから普仏戦争は日本にとっても非常に重要な戦いであった。
法普戦争が普仏戦争になる、すなわちフランスとプロイセンの順番が入れ替わるという事実が日本の立場の変化を物語っているように思われる。
八冊揃いのうちの六冊だけながら双白銅文庫としては少々自慢の架蔵書である。