鹿田静七の書簡を入手した。発局の消印は読めないが、長浜局の印は「近江長浜/明治三十四年十月/十四日」、他に同日の印もある。宛先は「滋賀県東浅井郡/大字青谷三十八番地/南部恵一様」。菊切手3銭が貼られている。封筒裏面は十月十三日の日付および「大阪市東区安土町四丁目百三十七番屋敷/書林鹿田静七」の住所印。
鹿田静七については下記のようなサイトやブログの記述が見つかった。
大阪の古書肆 鹿田松雲堂物語
http://1st.geocities.jp/ohara_osaka/index.htm
鹿田松雲堂歴代
http://bokyakusanjin.seesaa.net/article/181516459.html
宮本又次『船場』(ミネルヴァ書房、一九六〇年)には二代鹿田静七古丼についてこう書かれている。
《幼名は文吉、文好といい、のち襲名して静七と称した。古丼はその号である。松雲堂主人ともいった。弘化三年十月一日北久太郎町四丁目に生まれた。父河内屋清七(鹿田氏)は天保十四年以来貸本業を営み、十歳頃から稼業を助けて、貸本の配送をしたそうだ。
のち父は貸本業を廃して、古書の売買を業としたが、数年にして歿し、文久二年家督を相続し、静七と改名し、一家の経営はその肩にかかった。幸いにも篠崎小竹の庇護によって家業は大いに進んだという。
明治三年居を安土町心斎橋筋(安土町四丁目)に構え、古書の売買と新著の出版販売とをいとなんだ。その古典を嗜好することは天性であって、商用のため四国・中国・九州に奔走するにあたり、忙中閑を偸みて、足利学校真福寺その他大寺院や名家の蔵本を閲覧して見聞を博めた。明治二十六年に安土町四丁目通りに移転、出版業は店員にまかせ、自ら全力を古典の蒐集販売に傾注した。[中略]大正八年八月十三日六十歳をもって歿。》
六十歳はおかしい。弘化三年(一八四六)生まれで大正八年(一九一九)歿なら七十三年の生涯になる。明治三十八年歿の誤りだろう。
もう一冊、架蔵の書物では幸田成友『番傘・風呂敷・書物』(書物展望社、一九三九年)の序に明治三十四年大阪市役所へ赴任した時代のことが語られているが、そこに鹿田が登場する。基本図書を参照するための図書館がなくて幸田は苦労した(大阪図書館が出来るのは明治三十七年)。
《同市第一流の古本店鹿田松雲堂へ出掛けて見せて貰ふ、生憎同店に持合が無い場合は、同店からその本を売捌いた覚のあるお得意へ照会して貰ふやうな始末であつた。当時の松雲堂即ち今の静七氏の祖父に当る静七氏は、極めて世話好きの人で、快よく書物を見せてくれ、また照会もしてくれた》
鹿田静七は立派な人物だったようだ。さて問題は手紙の内容である。うむむ、幕末生まれの人の手紙は容易には読めないぞ。是非ともご専門の方にご教示願いたいものである。
拝啓態々遠方より御払本ニ付詳細
之目録御送被下拝見致候處
教科書ノ古本其他洋紙書類
様々……
とここまでも自信はないが、この後はさらに難物である。南部恵一さん(不詳)が処分したい本のリストを鹿田へ送った、その返事ということは間違いない。買取にはあまり乗り気でないような書き振りである。松雲堂向きの本ではないし、遠方だから運賃もかなりかかる。安くしか買い取れないというような内容かと思うが、正確には読み取れていない。お閑な方、ご解読を。
『古典 松雲堂月報』第三冊(鹿田松雲堂、一九二八年一〇月二五日)
http://sumus.exblog.jp/14307926/