
藤島武二「芳惠」。大正十五年五月に開催された第一回聖徳太子奉賛美術展に出品された。『別冊太陽 竹久夢二』(平凡社、一九七七年)を見ていると、この絵のモデルは夢二が大正八年頃からモデルとして雇い始め一緒に暮らすようになる「お葉」(佐々木カ子ヨ)だと書いてあった。
ネットで調べると、十二歳からモデルをやっており画学生の間では大人気だったということだ。夢二とお葉との関係は大正十四年頃まで続いたようだから、夢二と別れた後すぐに武二のモデルをつとめたということになる。下の写真は夢二が撮影したお葉の写真をタテ位置にしたもの。横顔を較べてみよう。

『別冊太陽 竹久夢二』には昨日の亀高文子の回想に出てきた和田古江の写真も載っていた。武井武雄「本と夢二」の記事である。『コドモノクニ』(東京社)は大正十一年一月創刊。

次はガラリと変って、しかし少しはつながりのある写真。星野画廊から届いたばかりの図録
『京都洋画の先達・伊藤快彦遺作展 忘れられた画家シリーズ34』。「浅井忠の一周忌に集う関西美術学院の画家たち 1908(明治41)12月19日 南禅寺・金地院」。梅原龍三郎もいるようだが、気になるのは足立源一郎。


足立は、亀高文子の回想によれば、文子と太平洋画会研究所でイーゼルを並べたこともある。文子が入所したのは明治四十年と与平の年譜に出ているから、同時期の写真だ。関西美術学院と太平洋画会研究所をかけもちしていたのかな? というか、これら二ケ所がこの時代の絵画を志す若者にとっては東と西の代表的な絵画道場だったということだろう。どちらも現存するのがスゴイ(太平洋画会は太平洋美術会と改称)。
足立は山岳画家として印象に残っているが、大正二年頃に大阪道頓堀中座前に友人たちとともに旗乃酒場(キヤバレー・ジ・パノン)をオープン、姉夫婦に経営を任せたことで知られる。大正九年ごろまでミナミ文化人の溜まり場として名を馳せた。もちろん宇崎純一も常連でパノンのナンバーワン・ウエイトレス三浦静江と大正六年に結婚している。

こちらは橋爪節也編著『モダン道頓堀探検』(創元社、二〇〇五年)より足立源一郎。「一九一六年夏、巴里にて」。クリクリ坊主から八年後とは思えないほどの変貌ぶり。二十七歳(宇崎純一と同い年)。