スミカズ・トークの下調べをしていて、珍しい記事を保存していたことを思い出した。『女学生画報』(女学生画報社)大正六年十月号に載っている「十月の松葉屋」。松葉屋はこの雑誌の主幹だった松阪青渓が経営していた女性向け(というか令嬢向け)の美術店である。写真
向かって左が吉岡千種。大正九年に木谷蓬吟と結婚して木谷千種となる。
同じく六月号には松葉屋開店を知らせる記事も載っている。平野町三丁目で六月七日に開店したのだそうだ。女学生画報社と同じ住所だからすぐ近所だったのだろう。「柳屋の東となり」ともある。柳屋は初め平野町にあった(明治四十三年開店、大正十年に南区畳屋町十四番地へ移転)。松葉屋では、絵日傘、花器、茶道具、化粧品などの他に宇崎純一の小品額仕立て「夏の女」を展示販売し、また島成園、岡本更園、松本華羊、吉岡千種らが彩筆をふるった「かきゑ袋」もあったという。そして
《我社の宇崎純一氏も氏が得意の筆を揮ひました》
というのである。《我社の宇崎純一氏》はビミョーな表現だ。確認し得たかぎり毎号『女学生画報』の表紙と挿絵を描いているのだから《我社の》スミカズでもおかしくはないが、社員待遇なのだろうか。
《スミカズ封筒 宇崎純一氏の封筒や便箋や、状袋には他の云ひ難いめづらしいやさしいそして新しい気分がします、最近意匠を凝らしたのが是亦いろいろまゐつて居ります》
「めづらしいやさしいそして新しい気分がします」というのは良い表現だ。
こちらが松阪青渓さん。『モダニズム出版社の光芒 プラトン社の一九二〇年代』(淡交社、二〇〇〇年)に収められている明尾圭造氏の論稿より。大阪朝日新聞社に文選工として入り、記者になった(わりとこういう人はいるようだ)。大正六年に退社して松葉屋を開いたということだろう。
後にプラトン社が『女学生画報』をまるごと吸収して『女性』を創刊(大正十一年五月)するのだが、そのとき松阪は発行人となった。では、松葉屋はどうしたのか? 残念ながら、それは分らない。とにかく貴重な記事である。