
二科展絵葉書「第十二回二科美術展覧会出品 休む女(座せる) 横山潤之助氏筆」。神田美土代町壹ノ四四美術工芸会発行。一九二五年の二科会展に四点出品したうちの三点がこの女性をモデルにしたものだったらしい。ドランのようでもあるが、モデルの印象的な雰囲気とも相まって独自の絵が出来ている感じだ。

こちらは昨年の百万遍で某書店の均一にあった『横山潤之助作品集』(横山潤之助後援会、一九七二年三月二〇日)。けっこう珍しい本じゃないの? と思いながら買わせてもらった。
本書によれば横山潤之助は一九〇三年四月七日に東京の白山御殿町で生まれている。父徳次郎は岐阜の出身で渋沢栄一を頼って上京、銀行家・実業家として成功した。横山家に寄寓していた渋沢秀雄から絵の手ほどきを受け、十六歳で川端画学校へ入学。一九二一年、東京美術学校の受験に失敗、ヨーロッパから戻ったばかりの中川紀元から現代美術の状況を学び、第八回二科展に初入選。一九二二年、中川紀元、神原泰らの「アクション造形美術展」の結成に参加、二三年の第一回展に油彩十六点を出品。一九二四年、二科賞受賞。会員となる。そして「休む女」や次の「裸婦」を発表する絶頂期を迎えたのだが、そのころから制作に対して懐疑的になり、一九二八年には帝展に自然主義的な作品を出品した後、一九二九年に米欧への旅に出かけた。帰国して結婚、長男をもうけたが、長男、妻、父を相次いで失う。一九四五年には白山御殿町の屋敷と作品などを空襲によってすべて失う。敗戦後、画友などとも完全に音信を絶ち、岐阜の精神病院で無休奉仕の生活に入る。一九五八年退職、再び絵筆を持つ。一九六二年神奈川県立近代美術館で「大正期の洋画展」が開かれ「少女半身裸像」「友の像」が展示される。朝日晃「幻の画家ーー横山潤之助」(『芸術新潮』一九七〇年四月号)が話題を呼び、東京で個展を開催することも決まるが、七一年五月四日、制作中に心臓冠不全のため死亡。

「裸婦」(「少女半身裸像」)一九二六年。東京国立近代美術館所蔵。

「休む女(座せる)」と「煙草を燻らす男(鈴木亜夫)」一九二二年。

「友の像(浅野孟府)」一九二四年。これはいい作品だ。

一九二九年二月一四日北京亭で開かれた「横山潤之助渡欧送別会」の記念写真。左手前から《不明、飯田三吾、永田一脩、野田……、横山潤之助、不明、浅野孟府、池田実、佐藤敬、田坂……》。
人生というのは不思議なものだと、この作家の略歴を引き写しながら、つくづく思うのである。