西村賢太編『藤澤清造短篇集』(新潮文庫、二〇一二年三月一日、カバー装画=信濃八太郎)。個展中に読んだ三冊目。これは主に会場で読了。多くの来場者に恵まれたとはいえ、ぷっつり人影のない時間帯も少なくなかったわけである。
昨年七月に出た
『根津権現裏』はかなり売れた。
《発刊後数箇月で二度の増刷を重ねたことは誠に快事であった。
周知のように、本文庫は初版部数に或る一定の高ハードルが設けられており、そも、そのラインナップに列なること自体が容易ではない。
そこへ長い期間、忘却の彼方に置き去りにされ続けていた私小説家がいきなり割り込み、地味ながらも強靭な存在感で予想以上の好評を博したのだから、つくづく小説とは、文芸評論家風情の短い物差しでは測りきれぬものがある。
以前に刊行を打診した文庫レーベルは、まるで話を聞く耳すら持たず門前払いの恰好であったが、今となってはそれも却って良い流れをもたらしめた。》(西村賢太「解説」)
この短編集も西村氏の練りに練った編集だけに粒ぞろい。いずれもテーマは変らず貧乏と女である。それでも、それぞれに工夫が凝らされており、案外と飽きさせない。なかで「敵の取れるまで」は発表紙誌不明で自筆原稿から収録されたという。
《平成二十三年の、明治古典会の大市に突如あらわれたもので、清造の草稿は他にも「乳首を見る」と「スワン・バーにて」の二本が出品された。いずれも筆者の長年の博捜でも突きとめられなかった短編であり、そもそも清造の原稿が古書市場に出るケース自体、極めて稀なことだった。》(同前)
小説もいいけれど、とくに感心したのは戯曲の二作だ。芝居好きで俳優を目指していたというだけのことはある。解説によれば最近になって実際に上演されたそうだ。
《尤も最近になり、それは大阪と東京の二つの団体によって、ようやく実現の運びともなったが、痛感させられたのは、かの脚本は到って上場に不向きであるとの事実だった。》
《ここに収めた二篇の戯曲も、文で読む限りでは滅法に面白い。会話も魅力的だし、「恥」の震災も、「嘘」で描出される、男女間の行き違いの愛憎も、いかにも今日的状況と相通ずるものがある。が、これを実際に上演した場合、よほどの演出家の腕がないと、どこか捌ききれない冗長なものが、変に際立ってしまうのである。》
ラジオ・ドラマならいいかも知れないなどと思ったりもするが、とにかく藤澤清造の戯曲上演は大いに興味をそそる宿題ではあろう。