
『芸術新潮』第二二六号(新潮社、一九六八年一〇月一日、表紙=熊倉順吉)「ぴ・い・ぷ・る」欄に「装幀」というテーマで佐野繁次郎が短い文章を書いている(あるいはインタビューか?)。集成の著述リストから漏れていた。矢部さんにご教示いただいた。

《本の表紙は字だけがいいと思います》と述べているが、他に野中ユリもこう書いている。
《活字と紙だけが本の要素なので、装幀などもともとなかった。紙の上に、いきなり活字が場を占める。紙が真白であり、活字が真黒であることが現前するのみだ。「瀧口修造の詩的実験」において、このことが十全を越えて実現された。》
清宮質文もシンプル派である(この一文があるから矢部さんは重ねて求められたのか)。
《私の好きな装幀は単純なもの、やはり欧州のものになります。それも昔ながらの文字の他にはわずかに飾り罫が使ってあるくらいのもの、また千代紙風の紙をうまく使ってあるものなども好きです。大分昔、装幀をやっていた父が、「点一つ打っても装幀なんだがなかなか認めて貰えない」とよくこぼしていましたが、そういう時代は来るのか来ないのか、本屋の店頭の賑々しい販売戦争を思い浮かべるとどうも来そうもないように思えます。》
父は清宮彬。白樺派の一員だった。さらに杉浦康平のこの言葉は本の本質を現しているかもしれない。
《語り部にも語れない本、どうしても手にとり、眼でみ、視触し一体化する本をつくってみたいというのが、装幀(いつも私は造本といいなおす)をたのまれたときの決意になる。》
本は中身じゃない。