
黒田三郎「碁を打つ」。《しかし、僕の頭のなかでは、どうにも詩人飯島耕一と碁とは結びつかなかった。受話器の横のメモがピンと来なかった所以である。三好豊一郎ならわかる。三好豊一郎ならざる碁の雄である。ヒルトップ・ホテルの一室で、加島祥造とざる碁をかこみ、「豊ちゃんは、人格高潔なのに、碁となるとどうしてこう、ひとものをとろうとするんだろうね」とひやかされながら、それでも必死に加島の石をとろうとしている姿が鮮かに僕の脳裏にある。本来なら、僕に三目は置かねばならぬ腕前なのに、自分で勝手に「もう二目でいいだろう」「もう対でいいだろう」と言って、自分の腕をせりあげるのである。》

小海永二「物故詩人たち」。まず一人は菱山修三のこと。《たとえば菱山修三さんなどはもう亡くなられて九年になるが、享年五十八歳で、同世代の詩人たちの中では早い死だった。わたしはその亡くなる三、四年前から、高等学校の国語の教科書の編集の仕事をいっしょにして、月に何度か、かなり繁くお会いしており》《晩年の菱山さんは詩壇的には不遇と言ってよく、わたしなどにどこか詩集を出してくれるところはないかと相談されたりした。その折、昭森社の森谷均さんに(森谷さんも今は故人だが)話をしたことがあるのだが、出版費用を何がしか本人に出してほしいということで、わたしがその旨を伝えると、菱山さんは残念そうにそんな金はありませんよとつぶやくように答えられた。》《教科書にどんな詩を載せるかという具体的な問題ではそう強く自説を主張されることはなかったが、話があれこれの詩人に及ぶと、それが特に同世代の詩人である場合、歯に絹[ママ]着せぬ口調で、卒[ママ]直な批評の言葉を口にした。草野心平さんや三好達治さんらの、いわば人気のある成功者の詩人たちに対して、とりわけその口調はきびしかった。》
この後、菱山の詩集は商業出版の形で別の出版社から出たとある。NDL-OPACで調べると詩集としては『恐怖の時代』(弥生書房、一九六二年)、『幼年時代』(牧羊社、一九六四年)が出ているようだ。
金子光晴も登場する。《金子光晴さんとは生前一度だけ会った。それもNHKのスタジオで、金子さんの詩をテレビで放送する時、ゲストとしてお招きしたのだが、わたしが横浜の大学に勤めていることを知ると、川崎のストリップと横浜のストリップとの比較を話され、もちろんそれは放送されはしなかったが、まずそれが最初の話題というわけだった。》