
『季刊本の手帖』(昭森社、一九七二年〜一九八七年)。創刊号の編集後記に大村達子がこう書いている。
《前社主森谷均が亡くなりまして早や三年の歳月が流れました。その間雑誌を何らかの形で刊行したいと考えてまいりましたが、このたびその夢を季刊「本の手帖」として、十六頁の小誌に実現させる運びとなりましたことを筆者並びに読者の方方に深くお礼申し上げます。
八十三号までつづきました月刊「本の手帖」の印象があまりに強く私の胸にあり、新しい雑誌を出すことになかなか踏みきれず、消極的でしたが、ささやかな紙数の中に珠玉のようなものをちりばめられたらと思い、先ず季刊の形をとり、そして昭森社の伝統を生かしたものをと考え創刊にいたりました。》
昭森社の住所は東京都千代田区神田神保町一丁目三番地。ここに紹介するものは小生架蔵のものではなく某氏に借覧したのだが、《神保町の木造家屋の急な階段を上った昭森社で買ったことを思い出します》ということである。一枚の大きな紙(既成の判には該当しない)に印刷し、それを折り畳んでA4とB5の中間くらいのサイズで十六頁にしてある。以下個人的に気になった文章を少しだけ紹介しつつ表紙(目次)を並べておく。まずは十号まで。

一羽昌子「アルベルチーヌ・サラザンのこと」が面白かった。アルベルチーヌ・サラザン(Albertine Sarrazin)は一九五三年にマルセーユで話題になった美少女強盗。脱獄の途中でジュリアン・サラザン、彼もまた泥棒の常習者だった、と出会い、獄中で結婚。夫妻は入れ違いに入獄と釈放を繰り返した。『くるぶしの骨 L'ASTRAGALE』(一九六五)、『脱走 LA CAVALE 』(一九六五)、『アンヌの逃走 LA TRAVERSIÈRE 』(一九六六)という彼女自身の体験をアルゴ(俗語)で描いた小説三作を残して一九六七年七月一〇日に三十歳余で歿した。モンペリエの病院で腎臓摘出など何度も外科手術を行い、結局心臓発作で亡くなったようだ。邦訳は『アンヌの逃走』(野口雄司訳、早川書房、一九八七年)だけだろうか?
アルベルチーヌ・サラザン オフィシャルサイト
http://albertine-julien.fr/

齋藤磯雄「三餘雜稿抄」は辰野隆への追悼文。《辰野隆博士二月二十八日逝去。三月一日初めて先生が邸宅に参じ霊前焼香。三月五日葬儀青山斎場、この日雲低くして寒雨霏霏たり》。昭和三十七年の麻布龍土軒での日夏耿之介詩碑委員会のときに辰野が齋藤にもらした《岩波文庫版悪の華を痛罵して已まず、貴訳ありてのちあのやうなものを公にする気が知れず》という言葉はなかなかシビア。むろん鈴木信太郎訳のことである。

大井正「テュービンゲン市の古本屋」はヘルマン・ヘッセが働いていた古本屋ヘッケンハウアー書店について。《十八歳のときに、かれは、シュトットガルトの南二〇キロにある、ここテュービンゲンに来て、この本屋でようやく常軌の生活についた》そして「ロマン的な歌」「真夜中後の一時間」「ヘルマン・ラウシャー」「プレッセルの四阿にて」などの詩や小説を書いたということである。
以下つづく。