
杉山平一さんが亡くなられたという報道があった。九十七歳。心よりご冥福をお祈りしたい。この写真は杉山平一『戦後関西詩壇回想』(思潮社、二〇〇三年)の口絵。左から杉山平一、竹中郁、小野十三郎、安西冬衛、井上靖。毎日新聞社屋上で撮影されたようだ。年月は不明ながら本文中に
《竹中郁の詩集『動物磁気』(一九四七)が出て、その出版記念会をしたのが、その年の七月だったが、小説を書き出したのに合わせる様に井上靖は東京へ転勤になった。その十一月十日に、竹中さんの肝入りで、松竹座の地下の食堂で送別会を催した。十人位のあつまりだったが、みんなで色紙に寄せ書きをした。私はたしか「告別の傷みに破るる勿れ」という朔太郎の詩句を書いたおぼえがある。みんな東京へ行ってしまうなあという淋しさであった。》
とある。井上靖は大阪毎日新聞社の記者だった。とすれば昭和二十二年の十一月十日の撮影か? 同社は当時、現在の堂島アバンザ(大阪市北区堂島1丁目6番20号)に社屋があった。だから後ろに見えているのは大阪駅だろう。陽はかなり傾いているようなので送別会の前に社に集まった仲間たちが屋上で記念撮影したのではないだろうか。杉山さんは三十三歳だった。
手持ちの絵葉書から大阪毎日新聞社の絵葉書を二枚紹介する。

《大阪毎日新聞は其起源を大阪市に於ける最初の大新聞たる大阪日報に発し明治十年以前の創立にて、明治十四年立憲政党新聞と称してより号を算し明治二十一年更に大阪毎日新聞と改称したるものなり》
明治二十二年に渡辺台水、本山彦一、高木喜一郎らが大阪の実業家の出資を募って会社組織に改め、明治三十年に原敬を社長に迎えた。原は第一次西園寺内閣に入閣のため小松原英太郎に交替、小松原も桂内閣の文部大臣になった。後を襲って本山彦一が社長となり紙面改革に当たった。大正四年より紙面を十二頁とし内四頁を夕刊とした。大正八年に株式会社となる。
《大正十四年春に到り発行紙数実に百二十有余万を算し号数茲に一万五千号に達す此際大に世運の進歩に貢献すべく四月一日を期し二頁を増し日刊十四頁とし内四頁の夕刊を発行し又記念として大大阪記念大博覧会を主催するところあり本社は又三十九年十二月より東京に於て毎日電報を発行し次で四十四年二月東京日日新聞日報社を買収し毎日電報を是に合併し東京日日新聞の名を以て之を発行したるが次を逐ひて隆盛に赴き関東に在りて殆ど比肩するもの無く偶々大正十二年九月大震災の厄を免れてより声望頓に倍加し名声関東に冠たり》
大大阪記念博覧会については以前紹介した。
毎日新聞の訃報:杉山平一さん97歳=最長老格の詩人
http://mainichi.jp/select/news/20120520k0000m060036000c.html