『日暦』75号(日暦社、一九八〇年五月一日)、76号(日暦社、一九八〇年六月一日)を頂戴した。ともに表紙・カットは中尾彰。『日暦』は古我菊治編で春陽堂より1933-1937,1941、そして復刊が日暦社より1951-1989に刊行されているそうだ。『渋川驍と昭和の時代』(東京都近代文学博物館、一九九五年)に総目録があるとのこと。戦前の創刊号(一九三三年九月)の同人は渋川驍、荒木巍、高見順、新田潤、大谷藤子、石光葆、白川渥、甲田正夫、古我菊治。76号の編集後記に復刊以来、高見順、千田九一、砂原彪、藤田貞次、摩寿意善郎、大谷藤子、新田潤、甲田正夫の八人の同人が歿したと記されており(記者は編集発行者の石光葆)、残った同人は石光葆、渋川驍、飯塚朗、白川渥、圓地文子、中尾彰、萱本正夫、矢口耕平、若杉慧、古我菊治である。
75号、渋川驍「卓上の懐中時計」は志賀直哉を訪問したときの様子を細々と会話の細部まで再現したもので、たいへん興味深い。大正文学研究会で刊行した『芥川龍之介研究』(河出書房)が好評だったため続いて『志賀直哉研究』と決まり、一九四二年十月四日の朝に渋川が世田谷の新町の志賀邸を訪問した。出版の企画の趣旨を伝えるためだった。志賀は渋川に好意的でいろいろな話をしている。チェホフやモオパッサンを英語で読んで影響を受けたことなど、昔話もしているが、それらは省略。志賀邸の様子などを引用しておこう。訪問時。
《玄関で案内を請うと、すぐ志賀さん自身が姿を現した。もう来るころだろうと待っていたにちがいない。右手にある八畳の間に通された。しかし、そこに座布団は置いてなく、庭に面した一間幅の廊下に小型のジュータンが敷かれ、そのまんなかに十二角型の塗り台の小卓が置かれ、その横に座布団が二つ並べられていた。その座布団を縁先に持ち出して、それに坐るように勧められた。しきりにあぐらをかくようにいわれるので、これにしたがった。》
辞去するとき。
《ときどき懐中時計の盤面に目を向けていたが、ついに長針が十一時四十分に達したのを見定めたので、そのことをいって、私は腰をあげた。立ちあがったあと、その廊下の突き当たりの壁にかかった梅原龍三郎の紫禁城の油絵を、近づいて一瞥した。座敷の床の間にかかったすぐ武者小路実篤とわかる菊の花二輪を描いた掛軸を立ち止って、ちょっと眺めると、志賀さんは、それは武者小路が大仁温泉で書いたものだと説明された。》
当たり前だが、まさに白樺派という調度や絵画である。文学談義では次のやり取りに同感した。
《「『道草』はまだ途中までしか読んでいないんです。『草枕』を近ごろ読み通して、どうして昔あれにひかれたんだろうと、いま考えるとおかしいような気がする。》
《「私は漱石にはむしろ小品のほうにいいものがあると思いますが。」
「滝井孝作も『硝子戸の中』などがいいようにいっていた。」》
滝井孝作の小説に対する評価は的確だ。志賀直哉も一目置いていたことがここにも表れているだろう。76号からも土方定一が登場している部分など引用しておきたいが、本日はここまで。