
少し前に拓本「詩聖杜拾遺像」を求めた。「成都杜甫艸堂」と印刷された紙袋に入っていた。丁寧な仕事だが、おそらく土産物であろう。成都(中華人民共和国四川省の省都、パンダの繁殖研究基地があるそうだ)の
杜甫の草堂に設置された石碑から取ったものである。拾遺は官職名。検索してみると多くの日本人が訪問しているようだ。
http://roseway.pixnet.net/album/photo/21972214-詩聖杜拾遺像
唐代の皇宮の聖賢図鑑(南薫殿本)に基づいて彫刻され、実際の容貌に近いと言われているそうだ。張樹勲とあるのは碑文を書いた人物か。清代の学者だったようだ(詳しくは知らない)。杜甫の年譜をウィキから引用すると、その晩年はおおよそこういう状況だった。
《756年(至徳元載) : 安禄山の攻撃により長安が陥落する。霊武(現在の寧夏回族自治区霊武市)で粛宗が即位したとの情報を聞くと、長安脱出を試みるが、反乱軍に捕まり幽閉される。
757年(至徳2載) : 脱出して、粛宗から左拾遺の位を授かる。
758年(乾元元年) : 房琯(ぼうかん)を弁護したことにより粛宗の怒りを買い、華州(陝西省華県)に左遷される。
759年(乾元2年) : 関中一帯が飢饉に見舞われたことにより、官を捨てて、秦州(甘粛省天水市)に赴く。さらに同谷(甘粛省成県)に移るが、ドングリや山芋などを食いつないで飢えを凌ぐ。蜀道の険を越えて成都に赴く。
760年(上元元年) : 成都で草堂(杜甫草堂)を建てる。》
「粛宗から左拾遺の位を授かる」というのが笏を持って冠を付けた正装になっている理由である。まあ、聖賢図鑑に掲載されるわけだから制服姿なのは当たり前か。しかし、官を捨てて隠遁した成都の草堂にこんな役人時代の晴姿の石碑が建てられたというのは、後代の人々の皮肉なんだろうか、合点がいかぬ。
杜甫と言えば有名な「春望」という作品がある。反乱軍に捕まり幽閉されていたときに作ったそうだ。
國破山河在
城春草木深
感時花濺涙
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵萬金
白頭掻更短
渾欲不勝簪
今はどうだか知らないけれど、われわれは教科書で習った。ところが検索していると見つかった吉川幸次郎の解釈(吉川幸次郎・三好達治『新唐詩選』)がなかなかのものなのだ。
まず、國破の「破」は敗ではない、という。《狂人が出たらめにはさみを入れた紙ぎれのように、ぼろぼろになってしまったことをいう》。破はたしかに粉々バラバラの意味だが、軍隊が敗れることを指さないわけではない。とは言うものの文脈から考えればバラバラというのが適切かも知れない。国家体制はバラバラだが自然は厳然と存在する。
感時花濺涙、恨別鳥驚心を《時に感じて花は涙を濺ぎ》《別れを恨んで鳥は心を驚かす》と読む。濺涙、驚心の主語を花および鳥とするわけである。花が涙をそそぎ(花びらを散し)、鳥が不安げになく。小生は「花にも」「鳥にも」と主語を作者とする解釈を習ったので、これには意表を衝かれた。漢詩の難しさ、面白さだろうか。
烽火連三月の「三月」も「三箇月」ではなく旧暦三月だと読む。「簪」は冠を留めるためのピンである。そう思えば、上の冠姿の像を知っていると「渾欲不勝簪」は理解しやすくなるのは間違いない。