
神保町での楽しみは安物洋書あさり。O書店とT書店の店頭均一にて。ヌーボーロマンのビュトール三冊とサロート一冊。このなかではサロートの『Entre la vie et la mort』(gallimard, 1968)が古書としては高価のようだ。次はビュトール『Dialogue avec 33 variations de Ludwig van Beethoven sur une valse de Diabelli(ディアベリ変奏曲との対話)』(gallimard, 1971)。もちろんこれらには書き込みが少しあって表紙なども汚れているので均一に放り込まれていたというわけ(フランスなら同じ状態でも多分それはないだろうが)。
入手したビュトール『LA MODIFICATION(心変わり)』(Bordas, 1973)は作家案内と本文註釈付きの教科書版(初版はエデイション・ド・ミニュイ、一九五七年)だが、とても参考になる。ビュトールは一九二六年、フランス北部ノール県モン=ザン=バルールで生まれた。七人兄弟の第四子。父は国有鉄道で働いていた。父の転勤にともなってパリへ移住。一九三九年、戦争が始まったときにルイ・ル・グラン高校に入った。父はアマチュア画家だったため、その影響を受けて文学や哲学よりも美術に興味を抱いていた。英語の授業でシェリーに出会って詩をむさぼり読むようになる。
十六歳で哲学の生徒となり、大叔父エドゥアール・ル・ロワ(コレージュ・ド・フランスの教授)の手伝いをした。しかしエコール・ノルマルの予備クラスの雰囲気になじめず、ひたすら読書に没頭。カフカ、ジョイス、プルースト…。エコール・ノルマル進学を諦め、ソルボンヌで哲学を専攻する、文学へ未練を残しながら。ガストン・バシュラールの指導を受ける。一九四六年にアンドレ・ブルトンと知り合う。特にシュルレアリスム絵画に魅了されたが、彼らのグループには加わらなかった。
一九五〇年、教授資格試験に二度失敗した結果、フランス語教師の口を求めてエジプトへ渡った。カイロ北方二百五十キロメートルにある小さな町ミニエ(Minieh)。ここで最初の小説『Passage de Milan(ミラノ通り)』(Ed.Minuit, 1954)を書き始める。一九五一年にはイギリスのマンチェスター大学の講師となる。そこに二年間とどまり『L'Emploi du temps(時間割)』(Ed.Minuit, 1956)の構想を練る…。と書き続けていてはきりがないので、このへんで。

ヌーボーロマンの作家たち。左からクロード・シモン、ビュトール、アラン・ロブ=グリエ、ナタリー・サロート。