
『書影でたどる関西の出版100』で函および表紙に使わせてもらったマークはこの創元社のPR誌『創元』から引用した。一巻五号(一九四〇年八月一五日)と一巻七号(一九四〇年一一月一五日)だけかろうじて架蔵している。250×137mm という変型だが、なかなかカッコいい。
『創元』の表紙が誰とは書かれていないが、むろんカットなども含め青山二郎だろう(『関西の出版100』では装丁者の表示に青山二郎と肩を並べて小生の名前を印刷するようにレイアウトした。青山ファンの密かな幸せ。自作自演ともいう)。後に(いつからだろう?)『創元』はすでに紹介したようにA5判になる。
http://sumus.exblog.jp/7428413/
http://sumus.exblog.jp/7424226/
なお、この鸚鵡(?)は、青山二郎のデザインにはよく見られることだが、古美術品から借用されている。中国(?)の硯にそのモデルがあった。

八月号をパラパラめくっていると、いろいろ面白いことが書いてある。三好達治が会津八一『鹿鳴集』の書評を書いている、というか、ほめたたえているのだが、その冒頭に《会津八一秋艸道人を実は私は今日までどういふ作者かいつかうに不案内でゐた》と書いてある。昭和十五年、会津八一は還暦だ。無名だった? なるほど、要するに早稲田の教員でしかなかったというわけか。『鹿鳴集』によって歌人としての地位を確かなものにした。
今日出海が「「多忙の弁」に答ふ」という近況文で「はせ川」のことを書いている。
《出雲橋「はせ川」は維新の祇園のやうに、荒文士が毎夜集つて議論をしてゐる。静かに飲んでゐると寒々とするからか、道場のやうに修業してゐる様は凄まじい。》
そしてきわめつけは水野亮の「長野図書館ー信濃の思出ー」。長野市の西の外れの県会議事堂の鉄柵に突き当たる少し手前の右手に図書館があった。古びた木造二階建だったが、貧乏な家に育ったという水野はそこへいつも胸をときめかせて通ったそうだ。
《定石どほり階下が書庫、二階が閲覧室になつてゐて、借覧用紙に型どほりの事柄を書いて差出すと、閲覧室の片隅の狭い区画に陣どつてゐる係員が、おもむろに立ち上つて、階下の書庫と連絡を取つてくれる。驚いたことに、係員の座席のうしろに三尺四尺方ぐらゐの穴があいてゐて、遠くから覗き込むと、階下の書架の一部が見える。ガラガラと釣瓶仕掛けで本がその穴から上つてくる。今なら間違いなく吹き出すところだが、その時分はおかしがるどころの段ではなく、さうした仕掛けそのものが何か高尚に思はれ、上と下の係員の詰らなささうな合図の掛け声といつしよに、飽つ気なくセリ上つてくる本を、ひどく厳粛な気持で見守つたものだ。》
明治三十五年生まれの水野が小学生の頃だそうだから、大正初年頃の話だろうか。つるべ式の書庫というのが目に見えるようである。