
《八木 福次郎氏(やぎ・ふくじろう=日本古書通信社前社長)8日午後2時42分、肺炎のため埼玉県所沢市の病院で死去、96歳。兵庫県出身。葬儀は近親者で済ませた。》(時事通信)
『日本古書通信』は年内に1000号を迎えるはず。残念な訃報である。八木さんにはスムース文庫で南陀楼綾繁編『私の見てきた古本界70年』(二〇〇四年二月二九日、表紙画=内澤旬子)を作ったときにお世話になった。といっても小生はレイアウトしただけだったが、刊行後、南陀楼氏といっしょに神保町にあったビルの上階の事務所を訪ねてご挨拶をした。当時は八十八歳だったということになる。明晰な話し振りだったことが強く印象に残っている。ご冥福をお祈りする。以下はスクラップ帳より。
神戸新聞一九九四年四月二五日(見出しの「書箱」はひょっとして誤植!)

朝日新聞二〇〇六年四月一五日、 be on Saturday

『日本古書通信』編集長日誌より。
《2月8日(水曜日)
八木福次郎顧問がとうとう亡くなってしまった。午後2時42分、入院中の病院でご長女に看取られながら静かな最期だったようだ。享年96歳、4月17日が来れば満97歳、11月の通巻1000号達成まであと少しだった。
午後6時過ぎ病院に伺い静かに眠っているような顧問に会った。昭和54年1月14日ころだったか、初めて古書会館三階の事務所で面接し、20日から出社したが、それからずっと机を並べての33年間お世話になった。葬儀は生前からの意思で密葬とし、後日偲ぶ会をすることになった。会場も2009年2月にゲスナー賞受賞祝賀会を開いた明治大学の紫紺館でやってもらいたいと、随分以前にご長男に話していたようだ。
病院からご遺体を自宅へ迎える準備をするために、折付と二人で駅まで十五分ほど歩いた。夕方駅に降りたときは、雪がちらついていたがもうやんでいた。以前は年一回春に会社の旅行があり、健脚が自慢だった顧問はよく歩いた。伊豆の修善寺に行った時は、伊豆箱根鉄道の駅から数キロを一時間ほど歩いた。明治生まれの一誠堂の番頭小梛さんも一緒だった。もう二十年以上も前だが、なぜかその折のことがしきりに思い出された。
午後10時頃自宅に戻られた顧問は、さらに静かな表情になっていた。今年1月13日にお見舞いに伺ったとき、これでお別れになるだろうと感じた。ただ、それは顧問が亡くなるというのではなくて、今までに感じたことの無いとても遠い人に感じたのだ。偶々体調が悪く意識が薄れていたためかもしれないが、確かにあの日に今生の縁が切れたのだろうと、今にして思う。生前の八木は姿を消したが、これからはずっと心の中で生き続けてくれて、生涯縁がきれることはない。十二時過ぎ雪もよいだった夜空も晴れて満月が真上に出ていた。句が浮んだ。
本の人春を待たずにまるい月》