『田中一光ポスター 1953-1979』(DNP文化振興財団、二〇一〇年)および『田中一光ポスター 1980-2002』(DNP文化振興財団、二〇一二年)を頂戴した。後者は現在
ギンザ・グラフィック・ギャラリーにて開催中。
《田中氏の急逝(2002年1月)は日本および世界のデザイン界に埋めがたい喪失感を残したが、それから約7年を経た2008年12月に、財団法人DNP文化振興財団への120,000点におよぶ作品、資料一括寄贈によって田中一光アーカイヴが設立された。》
《以上触れた作品と資料は、デザイン室の保管棚に事前に付した棚番号に沿って、1点ずつ撮影するとともに、パソコンにデータを打ち込むという作業の繰り返しであった。これも、デザイン室各フロアーの配置と分類を損なわないようにという配慮であるとともに、故人が生前、ひたむきに営々と築いてきた世界を、新しい移転先においての再現を可能とする目録づくりを試みた結果である。こうして延べ5ヶ月にわたる取り組みを経て寄贈目録が完成するとともに、作品と資料の一括寄贈によって、上記したように田中一光アーカイヴ設立に至った。》(臼田捷治「デザイン界待望の田中一光アーカイヴ設立の実現」)
一九三〇年奈良市内に生まれ。五〇年京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)図案科卒業、鐘淵紡績(現カネボウ)意匠科のテキスタイルデザイナーを経て産經新聞大阪本社事業部でブラフィックデザインに携わる。産経時代に吉原治良の薫陶を受け、早川良雄の影響を受ける。五三年日宣美会員。五七年ライトパブリシティ入社。六〇年日本デザインセンター創立に参加。六三年田中一光デザイン室を主宰。オリンピック、万博に関わり、七五年西武流通グループのクリエイティブディレクターに就任……。
戦後の高度成長期をデザインの世界で牽引し続けた、という印象の略歴である。吉原治良の薫陶を受け、とあるのを読んで、田中一光ポスターのエッセンスに触れたような気がした。吉原治良なんだ、そうか、なるほど。もうひとりの具体作家ということになろうか。
われわれの世代にとってはやはり、西武やイッセイ・ミヤケ。平凡社の雑誌『太陽』の表紙のロゴが田中一光に変ったとき、これは善くも悪くも田中一光だなあと思った印象が強く残っている(のちに「光朝」という明朝体に結実したそうだ)。
世界商業デザイン展、一九五九年、シルスクリーン、共同通信社。
第8回産経観世能、一九六一年、シルスクリーン、産經新聞大阪本社。部分。
セールスマンの死、一九六六年、シルスクリーン、劇団民芸。イラストレーション=和田誠。
玉三郎の宇宙、一九七八年、オフセット、渋谷西武、写真=篠山紀信。
JAPAN STYLE、一九八〇年、オフセット、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館、国際交流基金、写真=十文字美信、衣裳=三宅一生。
ISSEY MIYAKE、一九八七〜八九年、三宅デザイン事務所、写真=アーヴィング・ペン。
左頁は人間と文字、一九九五年、オフセット、モリサワ。右は舞踏花伝、一九九六年、オフセット、ジャストシステム、他。