
『芹沢銈介をめぐる30の物語』(静岡市立芹沢銈介美術館、二〇一一年)図録。以下に紹介する雑誌『工藝』は昭和六年一月創刊、昭和二十年一月に百二十号をもって終刊した。柳宗悦を中心とした民芸運動の機関誌として重要な役割を果たした(と図録の受け売り)。『工藝』刊行趣意書(昭和五年十一月)は柳宗悦、富本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司、石丸重治、青山二郎の連名になっている。
創刊号から十二号まで一年分の表紙は芹沢銈介が手がけた。芹沢にとって最初のブックワークで、型染めを始めて一年にも満たないキャリアであったという。
《僕はもし芹沢君がこの『工藝』の装幀の仕事をやらなかったとしたならば、結局いまの染の仕事は開けなかったじゃないかと思うね。それは柳さんの著者に啓発されるところも大きかったにちがいないが、実に民藝としての染の本質をつかまえたのは、この『工藝』の仕事をひきうけたからなんだ。そのころの芹沢君は、まだ他と何等区別のない、いわゆる個人作家だったんだからーー。それがこの装幀というムラのなく一定の数をそろえねばならぬ染の仕事にたずさわることによって芹沢君はまず工芸的な工人の意識をのみこんだのだと思うね。》(式場隆三郎)
こういうところが民芸運動のあまり好きになれない表現なのだ。芹沢が一工人であろうはずがないし(一工人が美術館や全集をもつ、もてるはずもないし)、一工人でなくとも初心者が大仕事に奮闘して腕を上げて行くのは当たり前のことであろう。
まあ、それはそれとして、この仕事の丹念さ、斬新なデザインには驚嘆するしかない。伝統的な装飾を少しだけ借りて、まったく新しい意匠を生み出している。青山二郎が装幀において、この影響をモロにうけているのもよく分かる。青山は芹沢の革新を一瞬にして理解したのだろう。
《芹沢はこの後、本の装幀の分野で大きな足跡を残し、生涯に500冊以上といわれる装幀を行った。その著者には、内田百閒、川端康成、岡本かの子、佐藤春夫、武田泰淳、獅子文六、海音寺潮五郎ら著名な作家が多数含まれるが、その最初の12冊という意味でも、「工藝」創刊号から12号は重要な作品である。》(図録解説より)
内田百閒は『百鬼園随筆』第一刷特製版限定1000部(三笠書房、一九三三年)、獅子文六は言わずと知れた『可否道』(新潮社、一九六三年)、他に式場隆三郎、柳宗悦、池田三四郎、今東光、山崎豊子らの著作も手がけている。そうそう『絵本どんきほうて』というスペシャルな一冊もあった。一時、芹沢装の一般書だけでも集めようかと思ったこともあったけれど、すぐにやめた。鮮やかなだけに、ちょっと飽きるところもある。