
『郷土趣味』第二号(郷土趣味社、一九一八年二月二〇日、表紙=間部時雄)。発行所住所は京都市境町通三條南緑紅花園内、編集兼発行人は田中俊次。《民族芸術、郷土人文、土俗学等其他百般の事項に就きて諸先輩並に会員諸氏の研究記事を掲載発表し会員は無代配布を受く》とある。本号執筆者は竹内不死鳥、田中来蘇、明石染人、杉浦丘園、吉村与四郎、田中緑紅。(この雑誌は復刻版が出ているようだ)
当時は宝船が流行していたらしく、口絵に木版画の宝船図が掲げられている。明石染人「『宝船』の真意義」より。
《流石は京都、旧い習慣と迷信と物好きとをゴツちやにして宝船を節分に授与し又採集するの風が近来多いに興起した、要するに文盲に枕の下に布いて好い初夢を見様う等と云ふのでなく今年は幾枚集めたとか、屏風に仕立てるとかの目標の手合いが多くなつたに過ぎない。》
《足利時代初期に至つて疫神を祓ふのに川へ流す思想と、豊作を祈る思想とが節分にカチ合ひ巧く融合して舟に穂を積み来る所謂宝船の濫觴を形成した。》
《然して宝船の起源は誰人も云ふ如く洛陽の古社疫神除の、少彦名命を祀る五条天神宮(俗称天使)から年々禁裡公家に奉献したものに初り、維新当時まで引続いて行はれて居た、尤も其古い版木は数度の回禄の為め宝庫と共に亡失し現存のは後代の模刻であるが中々真髄を伝へて居る。》
下の図は平野神社の宝船。《一説に大雅堂の筆なりとの説あれども執るにたらず》(緑紅)

おなじく明石染人「伏見人形小話」に古代伏見人形の写真が出ている。現在流布しているような種類の伏見人形は明治維新以後に作られたものという。巷間言われていたように鵤(いかるが)幸右衞門がその始祖ではなく、後水尾天皇元和の頃(十七世紀初め)東福寺近傍に生まれて伏見人形に一代革新を与えた人であろうと明石は推測している。

裏表紙の「八坂神社蘇民将来社の茅の輪」。毎年一月十九日に限りこの飾りができ、この輪をくぐればその年には疫病に罹らないという。蘇民将来がスサノオを助けて疫病を防ぐ茅の輪を授けられたという伝説に基づき、平安時代以来流行したようだ。

現在の八坂神社では一月十九日にこの茅の輪の設営は行われず《境内疫神社で厄除を祈ります。》とだけ。ただし六月三十日の大祓式において《境内に大茅の輪を設置。茅の輪をくぐり半年間の罰穢を祓います。》……。