上は水谷不倒『平賀源内』(中公文庫、一九七七年)。下は菊池寛『文芸当座帳』に挟んであったコピーより「源内の手紙」(『菊池寛全集』第十二巻、平凡社、一九三〇年)。菊池寛が父の死に際して帰郷したときこの手紙を見つけた。黄山というのは菊池の先祖で高松藩に召し抱えられた儒者。
《屋島山麓古高松の人であるから、源内の出生地である志度とは一二里の距離であるから源内は幼事[ママ]私の先祖に学んだかも知れない。尚私の家に源内焼と云ふものがある。茶褐色の大皿で、東半球の地図を焼きつけてある。大東洋と云ふ字など使つてある。此の皿には銘がないが僕の親類の家にこれと同じものがあつて、それには源内と銘があるさうである。》
文面には秩父の鉄山が大成功したように書いてあるが、中公文庫『平賀源内』の解説(浜田義一郎)によれば実情はこうだった。明和二年頃から始めた秩父鉱山が大事業で、源内は終世その運営に苦労した。初めは武田信玄が金を採掘したと伝えられるため、金を掘ろうとしていたようである。
《村人と共同で事業を始めたが、源内には幕府の医師千賀道隆が後援者となっていた。千賀は田沼政権の鉱山方面を担当した人だから、田沼系の資金が出たと思われる。しかし金は出ないので鉄山とし、十年ほど作業したが鉄の品質が悪いので断念、一転して炭焼を始めたが、これもはかばかしくなかった。》
《なお彼は鉱業に明るいと一般から思われていたので、仙台藩、秋田藩その他の藩に技術指導者として迎えられている。とくに秋田藩の銅山を視察した時は謝礼百両を贈られた。この時幕府は秋田藩に金一万両を貸付けているから、リベートの感があり、千賀道隆を経て田沼政権とつながることを示している。》
なんだか、江戸時代も現代もやっていることはまったく同じという感じがするなあ。また浜田によれば源内は田沼意次との接近を実際以上に吹聴する癖があったらしい。上の手紙でもその傾向は読み取れるようだが、今でもこういう人は少なくないだろう。
ついでに先日の補足。菊池寛が「先祖に天保の漢詩人菊池五山あり」と書いたところ菊池五山の子孫から苦情が出たということを昭和八年の「話の屑篭」に書いている。説明すると長くなるので直接読んでいただきたいが、要するに菊池寛は菊池五山の血統であることは間違いないようだ。
「話の屑篭」