
菊池寛『文芸当座帳』(改造社、一九二六年六月一二日)。菊池寛の雑文集である。これがなかなか面白い。例えば「自分の名前」と題した短文はこうだ。
《自分の名前を書き違へられるほど、不愉快なことはない。自分は、数年来自分の姓が、菊池であつて、菊地でないことを呼号してゐるが、未だに菊地と誤られる。》
《一体菊地など云ふ姓は、日本姓氏録にある名前とは思はれない。現在菊地姓を名乗る人もあるが、それは維新以後生じた新姓であらうと思ふ。所が、『女性』三月号(大正十三年)を見ると、永井荷風氏が天保慶応の漢詩人菊池五山のことを、悉く菊地五山と書いてゐる。当代随一の文人たる永井荷風氏の文章だから、雑誌社の方でも厳校の上にも厳校を加へてゐる筈だから、七八ケ所も出て来る菊池[ママ]が悉く誤植であるとは思ひ得ないのである。菊地[ママ]五山は、自分の遠祖高松藩文学菊池万年の実弟で、江戸へ出て一家を成した男であるから、菊地姓を名乗つてゐる筈はないのである。常に博識を以て自任し、現代文人の無学無文字を嘲つてゐる荷風先生にして、肝心の人の姓名を誤書するに至つては、沙汰の限りである。》
肝心なところで誤植があるのもご愛嬌なり。ここで菊池寛があげつらっている文章は「下谷のはなし」である。たまたま架蔵する『荷風全集』第二十九巻(岩波書店、一九七四年)に「続参考篇」として収録されているので参照して見ると、指摘されているように「菊地」で押し通してある。やはり荷風の書き誤りだろうか。「下谷叢話」として改稿されたときにはちゃんと直っているが。江戸以前に菊地姓がないかどうかについては判断しかねるものの、日置昌一編『日本歴史人名辞典』(講談社学術文庫、一九九〇年)に「菊地」姓は採られていない。
まあ、人の名前はときどき間違えることもある。最近はあまりないが、以前はよく林鉄夫とか鉄男という手紙がとどいたものだ。そういえば、亡くなって早一年が過ぎてしまった田村治芳(はるよし)さん、芳治(よしはる)と頻繁に間違われるんだとこぼして(笑って)おられた。小生がある人に田村さんの名前を教えたときにも、まったく気づかなかったのだが、芳治と書いたらしい。ずっと後になって、教えた方から指摘された。すみませんでした。