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美しき原風景河野保雄編『美しき原風景』(現代芸術叢書1、芸術現代社、二〇一二年一月一五日、造本設計=巌谷純介)。表紙画は清宮質文「夜明け」。これまでも何冊か紹介してきた百点美術館・河野保雄コレクションをもとにしたエッセイ集である。粟津則雄らが執筆するなかで、やはり河野氏の文章に惹かれてしまう。例えば「長谷川利行と私」は氏のコレクションの原点となった利行作品との出会いについて書かれている(初出は『長谷川利行画集』共和出版、一九八〇年)。 河野氏が喫茶店を経営していたとき、客のなかの一人の紳士に呼び止められた。壁に絵がかかっているのを見て、絵に興味があるのなら林武の絵をくれると言い出す。「そんな高価なものは……」と辞退すると、こんどは「利行ならどうです」ときた。利行の名前は学生の頃から知っていた。 《利行とはあの利行なのか、高い安いはともかく興味なら大いにある。ここ十数年のあいだ忘れたころになると、うすきみ悪いように登場してくる名前だ。この機会にぜひ一度見ておかなければ、いや手に入るならば、と。 「ぜひ下さい、いやおゆずり下さい」と私はせき込むように言った。 「ゆずるほどのものでもありませんが、それではチョコレート一枚とでも交換しましょうか」と意外な答えが返ってきた。かつて吉井先生[吉井忠]が、あれほど情熱をこめて話してくれた利行の作品がチョコレート一枚とはと、私はなんとなく肩すかしをくらった思いがした。そこで、 「利行はそんなに値打ちのない画家なのですか」と聞くと、彼は、 「いやいや、これにはいろいろといわくがありましてね」と次のようなことを話しだした。》 昭和二十七年頃、その紳士の実家の近所にいた未亡人から彼女の夫が千葉で開業医をしていたときに長谷川利行がやってきて酒やいくばくかの金と引き替えに置いて行った作品があると聞かされた。それが段ボール箱一杯になっていた。未亡人は捨てるに捨てられず夫の死後も保存していたのだが、もしこれを換金できるのならと紳士に相談をした。紳士は友人たちに諮って宮城県の図書館で長谷川利行作品展示即売会を開くことになった。 《ほこりに埋まっていた数々の作品は、会場のテーブルに並べられた。売れるかどうかわからないので額縁にも入れられず、文鎮でおさえるというあわれな展覧会だった。 人でごったがえす盛り場の風景、三味線を弾く女、忘れられたような裏通り、子供が落書きでもしたような裸婦、そられ数十点の作品は、油彩、水彩、クレパスなどによって、自由奔放に描かれていた。価格は一点三百円から千円であったという。当時、喫茶店のコーヒーが一杯五十円、ラーメンが三十五円であった。だが、これらの作品をすすんで買ってくれる人は、一人もいなかった。彼らの即売会は、完全に失敗であった。》 それでもなんとか知人に押し付けて未亡人にあるていどの金額を渡すことができた。作品は仙台を中心に方々へ散らばり、紳士の元にもいくつか残った。 《いただいたのは「中華料理店」という水彩8号の名品である。参考までに、即売会のときの値段をきくと、八百円であったという。ちなみに、いま手に入れるとしたら美術年鑑では号百万以上で8号となると気の遠くなるような値段である。たいへんなチョコレートをいただいたものである。》 《私の宝物となったこの一点は、とうぜんのごとく喫茶店の正面に飾られた。多くの利行作品の例にもれず、この絵も決して堂々たるものではない。むしろ時には頼りなげに見える。ところがこの絵だけは、日常飾ってある他のものとは、まったく違うのだ。どこがどう違うのだろう。こんな素朴な疑問が、とうとう私を本格的に絵画という世界に引きずりこんでいくのである。》 洲之内徹『気まぐれ美術館』(新潮文庫、一九九六年)の「エノケンさんにあげようと思った絵」によれば、昭和三十年代初め頃の長谷川利行の値段はつぎのようなものだった。当時、八千代証券の社長の平木三郎が長谷川利行を熱心に集めていた。 《絵は長谷川利行以外は買わないという、ちょっと変わった面白い人だった。その代わり、号一万円と自分のほうで値段を決めて、いくらでも買うからどんどん持ってこいというわけで、私はこの人に、長谷川利行を何十点も売っただろう。平木さんは、当時もう二百点くらい利行をもっていて、自分で利行の画集を作りたいと言い、私に編集をやれと言って、本はこのくらいのものをと、見本によこしたのが皇太子殿下の御結婚記念写真集だったから、先に私が書いたその頃というのはその頃のことである。見本をもらっただけで私は一向に手をつけず、そのままになってしまったが、平木さんのその計画が実って、後に中央公論社版の画集になったのだと思う。》 中央公論美術出版の画集は昭和三十八年に刊行されている。先の未亡人ももう十年待てばまったく状況は違っていたかもしれない。それにしても絵の値段というものは、もちろん需要と供給のバランスなのだろうが、なんとも単純なもの、ある意味とても解りやすいものである。
by sumus_co
| 2012-01-05 21:36
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