
水明洞の百円箱のなかにこんな立派なタトウがまぎれていた。オオ、と声を発して開いてみると骨董雑誌『小さな蕾』(大門出版)のバラが五冊、48、50、51、52、53号。つまらん。

しかしタトウは欲しい。ひょっとして一冊分の百円にしてくれないかな、という淡い期待をもってレジのおねえさんに差し出すと「五百円になります」とにべもない。当り前か。しょぼ=ん。

帰ってきて、ちょいちょいとつまみ読みしてみると、一九七八年という骨董ブームさなかの雑誌らしく、そして秦秀雄(井伏鱒二の小説『珍品堂主人』のモデル)という主筆(?)の雑誌らしく、けっこう読み物に骨があった。金子光晴、小野十三郎、片桐ユズル、黒田三郎、都筑道夫、坂東三津五郎、池田三四郎らも寄稿し、庄司浅水、野々上慶一の名前も見える。
なかで藤井重夫の「川端康成と骨董品」というエッセイが目にとまったので読んでみた。鎌倉長谷の川端邸を藤井が訪問した話。
《広い和室に通された。床の間には軸は何もなく、座敷の片隅に、割れたサビだらけの小さな火鉢が、無造作に置いてあった。
例によって先生は、大きな眼で黙って、座卓の反対側にかしこまっている私をときどきごらんになり、あとは無言。
このうち、岩波から使いの人がきて、先生は家人がさし出した書類に判コを押し、ややあってから私をふり向き、
「いまのは、伊豆の踊子の重版の検印承認書ですよ。あれ(伊豆の踊子)は、ずいぶん私を養ってくれています」
まるでそれは淡々と、気を許した友人に内輪ばなしをするような口ぶりであった。》
岩波といえば岩波文庫『伊豆の踊子・温泉宿 : 他四篇』(一九五二年)の重版に違いなく、すると昭和三十年頃だろうか。さて次にそこへ美術商がやってきて愛らしい《船箪笥のミニチュア》を川端に見せたという。美術商はポケットから折りたたみの「小型めがね」を取り出して川端に渡すと、川端は《じぶんの顔にあてがって、船箪笥や灰皿や、そこらのものを眺めまわし、それはまるで、思いがけない珍しい玩具を手にした、童児のようだった。》
また川端は京都が好きだった。京都での何よりの楽しみは骨董品あさりであった。
《珍しいものには眼がなかった。すぐ、それが欲しくなる。持ちあわせに何十万円というお金は、ナイ。
朝日新聞の京都支局へ、そのお金のくめんを頼む。
そんな金が、かなりたまった。》
それじゃあ借金は原稿料で棒引きという話になり、
《『女であること』『古都』など、つまり先生の戦後の新聞小説が、朝日新聞で独占になったわけである。これは川端康成先生に関する「秘話」の一つといっていいだろう。》
まあ、秘話というほどでもないだろうが、骨董好きの一面はよく出ている。棒引きというより前借りと考えた方がいいのかもしれない。戦前の文士の話には前借りがむちゃくちゃ頻繁に出てくるから川端にとっては当り前の感覚だったのではないかと思ったりするのである。タトウの百円か五百円かに心を砕くちっちゃい男とは雲泥である。