
二月に新潟で買った茂田井武
『パリーノコドモ』復刻版(トムズボックス、二〇〇八年。元版は、まひる書房、一九四六年八月一〇日)より「六月/七月」。
コクミンサイガ
キマシタ
サアオモテヘデテ
ミンナデ
オドリマセウ
こちらは同じく茂田井武『じぷしい繪日記』(もたいたけし文庫3、トムズボックス、二〇一〇年八刷)より。巴里祭の様子。

《七月十四・十五・十六日
きやとるずじゆいえ(カクメイ記念日)コノ日ハオ爺サンモオ婆サンモ大人モ子供モミンナ、往来ヘ出テ踊ルノダトイウ。成ル程、夕方ニナルトタチマチ湧キアガルあこじよんノ調ベニでばかめでえるノ狭イ通リハ一パイニナツタ。
ボクハ床ヤノオカミサンデマルデロウソクノヨウナまだむトたんごヲ踊ツタ。》
《英語ノぷりいずガしるうぷれ。トテモ愉快デスガじゆすいこんたん。マヌケヤロウガのんてじゆナドオボエル。》
「きやとるずじゆいえ」は「Quatorze Juillet」(14日7月)、「しるうぷれ」は「s'il vous plaît」、「じゆすいこんたん」は「je suis content」、「のんてじゆ」が「Nom de Dieu」(「ちくしょう」などに相当)であろう。
二十一歳半の茂田井武は昭和五年三月に四十円を持って東京を出発。四十円はまあ、現在の二十万円と考えておこう。大阪、福岡、京城、ハルピンと渡り歩き、シベリア鉄道でパリに入ったのが同年六月らしい。ぱりい・がる・どのおる(北駅)に着いたときには《べるぎいノりえいぢゆデ途中下車シ食事ヲシタタメぱりいニツイタトキハ小銭ガアルカナシデアル》というようなありさまだった。列車で見た広告をたよりにピガールの「ほてるすわ」(諏訪旅館、住所はクリシィ大通り六番地)へ向い、諏訪秀三郎の世話で「せるくるじやぽね」(日本人倶楽部)の皿洗いになった。
諏訪は金子光晴『ねむれ巴里』、藤田嗣治『巴里の横顔』、石黒敬七『巴里雀』や南方熊楠の履歴書にも登場する有名人。茂田井の例でも分かるようにパリにやって来た日本人の面倒をじつによく見た。官費留学くずれでフランス女性と結婚しフランス語が堪能だったようだが、昭和八年にアントワープで射殺されたという。
茂田井は一年ばかりパリで働きながら市井の人々を画帳に描き、絵日記をつけていた。このときに山本夏彦と知り合って生涯の親友となった。昭和六年、ベルギーからロンドンに渡り、強制送還によって帰国することになる。

『じぷしい繪日記』に自作のコラージュ・カバーを付けてみた。