『ある「詩人古本屋」伝 風雲児ドン・ザッキーを探せ』のつづき。これがドン・ザッキーが三号まで発行した『世界詩人』という雑誌である。昨日掲げた写真に写っている連中が参加しているが、他にもヨネ・ノグチ、小野十三郎、友谷静栄、黄瀛、金子光晴、林芙美子、宮島資夫、富田常雄、辻潤(二号に「きやぷりちこ」)、岡田龍夫、高群逸枝、陀田勘助、野村吉哉、新居格、橋爪健、伊福部隆輝、岡崎龍夫(季村敏夫『窓の微風』に精しい!)などの名前が目次に並んでいる。
阿佐ヶ谷人種に興味をもっているということは以前書いたように思うが、『世界詩人』を発行していた「世界詩人社」の住所は東京市外杉並町高円寺一〇二六である(第一号だけは神田となっているが)。大正十三年六月一日から杉並村は町制が施行されて杉並町となった。青木氏は「ドン社」の住所を「東京市外杉並村高円寺一〇二六」と書いておられるので(p186)、『白痴の夢』(ドン社、大正十四年五月)ではあるいは村と表記されているのかもしれない。制度上では杉並町だった。
柳瀬正夢が「市外杉並村馬橋二二九」に移ったのは大正十三年一月、翌年「杉並町馬橋三九九」に引越し、昭和四年には高円寺へ(松岡朝子編年譜)。小林秀雄は大正十三年二月頃「豊多摩郡杉並村馬橋」に住みつき、十四年十一月に杉並町天沼で長谷川泰子との同棲をはじめている(やりみずホームページ)。柳瀬一家(夫妻と赤ん坊)と小林一家(母と妹と三人)はごく近所だったと思われる。
大正十四年、日夏耿之介は「東京市杉並区阿佐谷に転居、翌年、同町八七三番地に居を構える」(井村君江編年譜、『本の手帖』一九六八年一一月)ということなのだが、これは住居表示に混乱がある。大正十四年当時はまだ東京市ではなく豊多摩郡。東京市杉並区になるのは昭和七年十月一日から。
大正十五年、小野十三郎は「東京市外杉並町馬橋三五五番地」に住んでいた(寺島珠雄編年譜)ということで、これもまた柳瀬家のすぐそばである。おそらく世界詩人社まで歩いても十分とかそのくらいの距離だろう(推測)。黄瀛も昭和四年頃には阿佐ヶ谷駅の北側に住んでいた(佐藤竜一『黄瀛』日本地域社会研究所、一九九四年)。いずれにせよ中央線沿線の発展とともに若きインテリ層が阿佐谷界隈にどっと住み着きはじめるのが大正の震災以降だとみていいように思う。
もうひとつ発見。「フランス装」(なぜか昨年来この検索ワードで当ブログを訪れる方が多い)の表記について昭和十年のジイド『贋金つくり』(山内義雄訳、白水社、一九三五年)が早いとしていたが、
http://sumus.exblog.jp/12117078
『世界詩人』第三号(一九二六年一月一日)にこんな広告が載っているそうだ(p128)。はっきり「フランス型美装」と書かれている。