
赤城泰舒(あかぎやすのぶ、1889‐1955、洋画家)の木版絵葉書を某氏より頂戴した。赤城は大下藤次郎の弟子で美術雑誌『みづゑ』の編集もしていたようだ。日本水彩画会創立(大正二年)に参加、また大正十五年には古賀春江や西田武雄らと「水絵同盟」を結成している。見ての通り大正十四年の年賀状。
宛名の飯田衛が誰なのか? たぶんコレクターか画家のいずれかだろうと想像はできるが、この葉書をもらった時点ではまったく分からなかった。某氏によれば某書店の段ボール箱にこの飯田衛宛(旧蔵)の古葉書がたくさんあった、そのなかから良さそうなのを拾い出してくれたのだという。
一度その箱を自分の目でのぞいてみないといけないと思っていた。本日、関東よりの客と市中で落ち合った帰りに某書店へ立寄ってみた。すると、思わぬ発見があった。くだんの箱にはさまざまな古葉書が何百枚もつめこまれていたのだが(いわゆる珍しい絵葉書はなさそうだったが)、絵画作品(展覧会出品作の絵葉書)だけに絞って点検してみた結果、飯田衛その人の木版画年賀状と作品葉書三点が見つかったのだ(まだ他に残っている可能性はある)。

未使用の酉年の年賀状。切手面には右から左へ「郵便はかき」とだけ印刷されていることからして、おそらく大正十年であろう。作品葉書のうちの二点を紹介する。「新興美術協会第三回展出品」および「新興美術協会第七回展出品」とあるのが悩ましい。「新興美術家協会」なら(家に注意)玉村方久斗らが昭和十年に結成した団体である。「新興美術協会」はさてどうなのか。

この絵のサインは「m Jida. 37」、ということで「いいだ・まもる」昭和十二年作と考える。これらとは別のもう一点にもほぼ同じサインがあり「春陽会第十六回展覧会出品」と記されている。だから昭和十三年の春陽会展に前年の作を出品したことになる。よって「新興美術協会第七回展」の開催も昭和十二または十三年であろうかと類推されるわけだ。春陽会は現在もつづく歴史ある団体なので、あるいは何らかの飯田衛についての情報が残されているかもしれない。
飯田は宛名のように奈良県の人らしい。作風は春陽会というか二科会ふうでもあろうか。色がないので断定はできないが、悪くないと思う。何かご存知の方はご教示願いたい。
今「飯田衞」で検索をかけるといくつかヒットした。大和叢書『大和の傳説』(高田十郎編纂、一九三三年)に「鳴動する天神山 天理市萱生町(旧山辺郡朝和村萱生)」、「無言の初詣 天理市萱生町」を執筆し、『天理市史』(天理市役所、一九七七年)に「飯田衞家文書」という記載があるらしい。