山本武夫編『小村雪岱画譜』(龍星閣、一九五六年一月一五日)より「お傳地獄」挿絵。小村雪岱(1887〜1940、本名、安並泰輔)は川越市郭町に生まれている……ということを今日初めて知った。郭町にはお世話になった人が住んでおられて、かつて何度も泊めてもらったことがある。馴染みの土地だ。土蔵造りの商家で有名なメインストリートからは少し外れていて、たしか、古い神社があった。
雪岱は荒木寛畝の塾、東京美術学校の下村観山教室で学んだ。卒業後は国華社で古画の複製を作る仕事に従事した。泉鏡花と知り合ったのはこの時代。『日本橋』の装幀は大正三年だ。大正七年に資生堂に入り広告などを手がけた。五年ほど在籍したようだ。山名文夫がやってくる前の話である。弟子の山本武夫はこう書いている。
《当時資生堂ではビァズレイの画集を買込んで色々とデザインの研究を始めていた。だから先生のブラック・エンド・ホワイトもこゝから生れ、その他浮世絵や、幕末、明治の石版画などの影響を受けてあの画風が決定された様に私は考えている》
「浪人倶楽部」挿絵。
「お傳地獄」挿絵。このじつに突飛な川流れの図はどうだろう。映画「犬神家の一族」じゃあるまいし……というか、犬神家のイメージは雪岱からの借用か(!) ただし、大昔の絵に同じような図柄があった。それはピーテル・ブリューゲルの「イカルスの墜落のある風景」(一五六二〜三年頃、ブリュッセル王立美術館蔵)である。
画面の右下、太陽に羽根を焼かれて今まさに海面に墜落したイカルスが描かれている。
雪岱とそっくり。ブリューゲルから学んだと考えても許されるだろう。これはほんの一例だが、時間や空間を超越したような雪岱の不可思議な画面作りの秘密を物語っているようにも思う。