与謝蕪村「春風騎旅図」(明和八年=一七七一)。
昨日のつづき。いろいろコメントいただいたので。
「猫に小判」、「犬に論語」、「馬の耳に念仏」はだいたい似通った意味である。英語には「死んだ馬に賛美歌を聞かせる Sing psalms to a dead horse」というのもあるそうだ。人間にとって価値あるものでも動物には価値がない、またはそれと同じような対比で人間同士の関係を諷しているのだろう。
ただ「馬の耳に念仏」は「馬の耳に風」のヴァリエーションだとされ、元は李白「答王十二寒夜獨酌有懐」に出ている「有如東風射馬耳」(すなわち馬耳東風)に由来すると言われている。友人から届いたその不遇を嘆くたよりに対して、李白が、寒い夜に一杯やりながら、そうだそうだと同感して答えた作。「馬耳東風」前後の部分だけ引用してみる。
吟詩作賦北窓裏
萬言不直一杯水
世人聞此皆掉頭
有如東風射馬耳
魚目亦笑得
請與明月同
驊騮拳跼不能食
蹇驢得志鳴春風
《北窓》は冬の間は閉じておく。その裏で作詩するのだから逆境ということを示すのだろう。《吟詩作賦》はおそらく政治的なマニフェストだとみていい。ところがそんな言葉を連ねても一杯の水ほどの価値もない。世の中の人はみんな「ノー」と頭をふりながらこれを聞く。まるで春の風が馬の耳に当ったときのようだ。白い目(魚目は馬または馬の目ともとれる)が笑うので秋の明月をいっしょにと願っても、名高い名馬はまるくうずくまったまま食べることすらできない。足の悪いロバだけが望みをもって春風にいな鳴いている。(以上まったく手前勝手な解釈ですのでご教示を乞い願います)
馬は、寒くてちぢこまっていた耳に生暖かい春の風が当ったから、くすぐったくて首を振るのであろう。そのさまを「ノー」という否定の仕草にたとえている。例えば選挙のための辻説法と考えれば、誰も賛同してくれない泡沫候補の心境だろうか。「猫に小判」とは違うようだが「犬に論語」とはやや共通する。『論語』も基本的には世に容れられなかった挫折者の立場から語られた正論なのだから。
李白は『唐詩選』が一般に流布した江戸初期から日本では有名になったらしい。「馬の耳に風」や「馬の耳に念仏」はそれ以降にパロディとして現れたと考えていいのかもしれない。
もうひとつ、薔薇のことだが、昨日の図を見ると、八重の立派な花である。ワイルド・ローズとはまるで違う栽培品種のようだ。たぶん「神聖」というよりも、観賞用として育てた高額な薔薇を豚にエサとして与える、そういう金銭的な観点からの諷刺ではないだろうか(?)。新旧約聖書に「薔薇」は出ていないようなので。ところで豚バラって、これも食べられるね。
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